さながら墓石の博物館。萩藩重臣の墓。 境内の南西、長門豊川稲荷参道の山手斜面に、段状に広がる墓地がある。 昭和四十五年から三年をかけて、郷土文化研究会がこの墓地を調査、約三百基におよぶ墓石を確認した。墓石の形もさまざま。 自然石のほか五輪塔、宝篋印塔、無縫塔、板碑型などとよばれるあらゆる形式の墓が並ぶ。 さながら墓石の博物館である。 墓地の上部、遊仙窟には大内義隆主従と当寺歴代住職の墓、すぐ下の経蔵跡地も寺関係の墓が多い。 墓地の下段に、当寺を開いた鷲頭弘忠、足利学校を起こした関東管領・上杉憲実の墓がある。 これらを除く百数十基は萩藩の重臣とその妻子の墓である。 一門とよばれる阿川毛利家、永代家老の益田家、寄組、大組などとよばれる多くの重臣の墓である。寄組では山内、児玉、 榎本、乃美、宍戸、堅田ほか十数家の名がみえる。 その中で、永代家老の益田氏二十代・元祥は関ケ原合戦後、毛利輝元に従い、石見益田(島根県)から長州須佐に移り藩の再興に尽くした。 三十三代・親施は禁門の変の責任をとって切腹した三家老の一人として知られる。 このように藩の重臣が一か所に眠る墓地は全国的にも珍しい。 |