当寺で滅んだ名族大内義隆主従の墓、天文二十年(1551)八月、家臣、陶隆房(のち晴賢)の反逆で、太守・大内義隆主従は山口を追われた。 山道をたどり仙崎から海路脱出をはかったが風波に阻まれた。再び陸路湯本の当寺に入った。すでに死を覚悟してのことだ。 異雪和尚の計らいで義隆らは行水、白装束で和尚の法話を聴いた。 追っ手はすでに寺を囲んでいた。義隆は重臣・冷泉隆豊の介錯で自害。寺には火が放たれた。 「討つ人も討たるる人も諸ともに 如露如電応作如是観」 (討つ人も討たれる人も、人生は露のように、稲妻のようにはかないものだ) 義隆の辞世である。 残るわずかな義隆勢は敵中に打って出て次つぎにたおれた。最後に冷泉隆豊が経蔵に入って割腹、はらわたを投げつける悲憤の最後を遂げたという。 九月一日のことである。義隆の子、義尊 らは異雪和尚の誘導で俵山に逃れたが助からなかった。 四年後、義隆の辞世のとおり、陶晴賢も厳島(広島)で毛利元就に敗れ自害する。 当寺裏山(遊仙窟)に義隆主従の墓がある。宝篋印塔の墓石のそばに、明治二十一年(1888)、毛利元徳がそれぞれ名を刻んで建てた三十三基の墓標がある。 墓標だけで墓石のないものもある。 また、義尊や三条公頼(武田信玄の義父)ら、当寺の近くで難に遭った人の墓もここにある。 墓所は昭和四十二年、山口県指定の史跡となった。 |