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義隆長門に奔る 第三話 お庚(こう)哀しや

義隆主従の逃避行には二つの重要な軍事会議があった。
 一つは、クーデター軍との和睦交渉が崩れた8月29日夜の法泉寺本営における軍議。義隆は、賊将陶隆房(すえたかふさ)に対して拒否できない申し入れを行うこと が出来る切り札として、 かって朝廷において総理大臣(関白)を勤めた経歴を持つ高級廷臣の二条尹房(まさふさ)を、陶軍の参謀内藤興盛(おきもり)のもとへ派遣した。前(さき)の関白(かんぱく) 尹房は、15歳になる嫡男従三位(じさんみ)左近中将二条良豊(よしとよ)をともなって山口城に寄留していた。元服を済ませたばかりの花の公達(きんだち)藤原良豊と義隆の愛娘庚(こう)姫(実子か養子かは定かでない。 一般に中将の姫と呼ばれているが、筆者はこの少女の実名が庚(こう)だという記事を見た記憶がある。ここでは、仮に「お庚さん」で通す。)の縁談が内々で進められていた矢先の奇禍だったと思われる。 だが、休戦交渉はケンもホロロに拒否されもはや妥協の余地は寸毫もないことがはっきりした。こうした事態を受けた緊急軍議により、法泉寺籠城戦の放棄が決断されたのである。この時点で、 義隆軍はそれまで帯同していた女性陣を分離する。当時の常識として非戦闘員である上流女性への決定的な加害は考えられない。幼い新介(義尊(よしたか)、7歳)との別離を嘆くお才(さい)の方(義隆の御台所)をはじめ、 御母堂や愛妾たちのすべてを郊外の有縁の寺々へ避難させた。事実これらの女性たちは無事命を永らえ仏門に入って大内一族の菩提を弔いながら長寿を全うした。

 軍議が終わると、肥中(ひじゅう)街道をたどって寵臣岡部隆景(たかかげ)の所領である秋吉岩永(いわなが)村から、義隆に忠誠を尽くす構えを崩さない陶隆康(たかやす)、隆弘(たかひろ)父子の支配地殿敷(とのしき)村、楢原(ならわら)村、稲見(いなみ)村方面を指向して直ちに退避作戦が発起された。おそらくは陶父子の居城がある西市が当面の目標ではなかったか。さらにその先の一の瀬村には義隆から所領安堵を受けた豊田種道(たねみち)の居城もあり、この方面の軍事的安全性はかなり確かなものだったからである。陶親子は、義隆主従の亡命を助けるために押し寄せる同族の攻撃軍と戦って即日法泉寺で戦死した忠義の侍であった。

 退却軍は性格の違う二つの集団で構成されていた。電撃的な作戦行動に即応しなければならない重武装の武士団と、クーデター軍に粛清される恐怖から逃避行に加わった公家、文人、官僚などバラバラな非戦闘員集団である。一行は、秋吉の岩永本郷で部隊の整頓を行い、最新の情報を基にして二つ目の重要な軍議を行った。その結果、前稿で触れたように本隊の戦闘集団は残余から分れて急きょ北転することに決し指揮を岡部隆景や冷泉隆豊(れいぜいたかとよ)が執ることになった。陽動作戦を兼ねてそのまま予定進路をとりつづける後者のグループのとりまとめを松原隆則(たかのり)たちが分担したのではないだろうか。資料に描かれる松原隆則の記述が微妙に違っていることが、この推理の根拠である。この集団の中に庚姫と二人の侍女の心細そうな姿もあった。

 ところで、精鋭のみで構成されるべき本隊の中に足手まといになる三人の非戦闘員が加わっていた。義隆の嗣子新介少年(7歳)と、山口の軍事交渉で落命させることとなってしまった前関白(さきのかんぱく)二条尹房の遺児である三位(さんみ)の中将(ちゅうじょう)藤原良豊(15歳)、それに新介の祖父である一忍軒持明院基則(じみょういんもとのり)(60歳)である。持明院は、義隆の岳父であるだけではなく、たって山口に招聘していた楽人たちの元締めであり、自身もまた当代を代表する人間国宝級の芸術家であった。持明院に率いられて被災した楽人の中には、今をときめく雅楽奏者東儀秀樹(とうぎひでき)氏の先祖もおられ、大寧寺に墓地が残されている。また、持明院基則は、多分、三位の中将良豊と愛娘お庚の縁談を取りまとめるキーパーソンでもあったはずで、義隆としては、なんとしてもこの三人の命だけは助けたかった。自決にあたって、時の大寧寺住職異雪和尚にくれぐれもその助命援助を遺言したことが各種の資料に明らかである。

 大寧寺一三世異雪慶殊(いせつけいじゅ)和尚と一四世の繁興存栄(はんこうそんえい)和尚は、共に壱岐の島の出身 者で、修行僧の多くはかれらを慕う玄界灘周辺の各地から集まっていた。この時期の大寧寺僧は北浦の陸路や海路に通暁していたことは間違いない。異雪の指揮する僧侶団は三人を伴って直ちに寺の裏山から俵山の政(まさ)村へ抜け、鍋さげ峠を越えて「北海みち」が「肥中街道」と交差する稲見(いなみ)村、楢原(ならわら)村方面へ密行しようと試みたのではないか。義隆の自決にともなって、非戦闘員たちは助命されるのではないかという期待もあった。肥中街道をそのまま進んで西市の陶氏の館か有縁の寺院に保護されていた庚姫一行と合流することが当面の行動目的だった。しかし、次の日9月2日、新介たちは俵山安田(あんだ)村周辺で警戒線を張っていた野戦軍に捕捉され、必死の説得もかなわず全員即日斬殺の憂き目に会った。護衛兵小幡美実(おばたよしざね)も弱冠わずか14歳の少年武士。俵山の美しい中秋の風景が若者たちの哀しい血で彩られた悲劇の日となった。

 ひるがえって、山口法泉寺落ちに際して女性たちの大部分は安全な場所へ避難したが、一組だけ例外があった。三位の中将二条良豊との内縁により中将姫 (ちゅうじょうひめ)と呼ばれるようになっていたお庚を、京都へ帰る良豊に同行させるため一緒に落ち延びさせようとしていた。秋吉で別動することになったが、必ず近々再会できるものと信じ、乳母の操(みさお)と身の回りの世話をする下女小倉(おぐら)を伴って、肥中街道の要衝にあたる西市周辺の避難所で大寧寺方面の消息を伺っていた。やがて秋風に乗って衝撃の悲報が届いた。父も、弟も、愛を託す妹背も、悉くが秋草の露と消えてしまった。残酷な事実がいたいけない中将姫の心の奥底に一つの強い決断を育てた。追捕の役人に保護されて山口へ連行される稲見村近辺の道野辺で、三人の女性は短刀でお互いの胸を刺し貫いて死んだ。折から山野に、やがて大内 菊と呼ばれるようになった秋明菊(別名 貴船)が咲き乱れていた。

 追記 半世紀前、筆者が初めて大寧寺にのぼって大内衆の墓地に詣でたとき、男たちの墓石の横にひっそりと静まっている三人の女性の墓に強い印象を受けた。以来、木漏れ日に揺らぐ苔むした小さな墓石の風情には心がかき乱される。

                                      文:徹翁啓靖




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