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長州法華 毛利元就(もとなり)の祈り

  迫り来る戦国乱世の軍鼓の響きに怯えた大内軍団は、首領に一門の陶(すえ)尾張守隆房(たかふさ)をいただき不転退の決意を持って「王殺し」king killingを実行した。クーデター軍に大内家を破壊する意志はまったく無く、むしろ「強い大内家の蘇生」を大内王朝のトップの交代に賭けたのである。天文20(1551)年秋、周到な計画に基づいた反乱蜂起は成功し、義隆父子と奉供の侍たちは長州大寧寺に追い詰められて全滅した。家風腐敗の元凶とみなされた寄寓の公卿衆、文人墨客(ぼっかく)、伶人(れいじん)たち(公卿従者という身分で山口へ出向していた音楽奏者。管弦係と詠曲、朗詠、今様歌などの声楽専門家)も各地で追捕粛清され、今ではつわものどもと共に大寧寺裏山の聖墓に合葬されている。受難の公卿衆の中で注意を引くのは、藤原三条家の当主公頼(きんより)の墓。降ること三百十数年後、「七卿落ち」として幕末の京洛を亡命した失意の三条実美(さねとみ)卿がこの期間深川の大寧寺に幾たびか詣でているのは、実に先祖の墓参りのためである。この逸話をめぐる物語は後日の別稿にゆずる。

 断末魔の境涯に追い詰められた義隆が後世に託した遺志は、二つ。一つは前稿で触れた幼い息子新介(享年7歳、没後義尊(よしたか)と諱(おくりな))、三位(さんみ)の中将二条良豊(よしとよ)(享年14歳)、義隆の妻おさいの方の実父持明院基則(じみょういんもとのり)(享年60歳。楽人のチーフ)、愛娘中将姫(享年15歳)たち非戦闘員の助命と保護だったが、この願いは大寧寺僧侶団の懸命の努力も空しく憐れ一吹の秋嵐に消え果てた。そしてもう一つの遺言こそは、言うまでもなく、反乱軍への復讐 の鉄槌である。

 陶隆房蜂起の大事に直面するや、義隆野戦軍は、即効性の見込める重要な戦略として、陶軍の本拠地周防の若松城に隣接し津和野三本松城に拠る吉見正頼(よしみまさより) (妻は義隆の姉大宮姫。長年領国境をめぐって陶一族と争いが絶えなかった。)と安芸(あき)の郡山(こおりやま)城の毛利元就(もとなり)に密書を急発して陶軍勢の背後を脅かすように求めた。そして戦局が窮まった最終段階の軍書では、もし万一のことある場合は必ず反乱軍を討伐すべしとのリベンジの遺言が託されたとされている。

 義隆グループを軍事力で排除したからといって、陶隆房には大内王朝を亡ぼす意思など微塵も無かった。むしろ健全でより強力な大内家を再興する端緒と信じ、義隆の血縁の甥である大友晴英(はるひで)(天文21年春、大内義長(よしなが)と改名。この機に隆房も入道して陶晴賢(はるたか)と改名した。)を新しい宗主に据えて領国内の抵抗勢力や不穏分子を鎮圧するために夜に昼を継ぐ滅私奉公の大働きをしていたのである。だが、この新生大内政権に対して、津和野の吉見氏や広島の毛利氏が猛烈に噛み付いた。いろいろ複雑な経緯やきわどい状況があったが、結局、義隆没後4年目に当たる1555(弘治元)年秋、毛利元就は、厳島(いつくしま)の有浦(ありのうら)に宮の尾城を築いて陶の大軍を誘い、客将村上武吉(むらかみぶきち)指揮下の村上水軍の支援を受けて夜来の暴風雨をつく払暁の総攻撃により、大将陶晴賢以下陶軍の本隊を一気に壊滅させて西中国の実質的な覇権を掌握することに成功した。晴賢は西岸に追い詰められて自殺した。時に男盛りの35歳。この時をもって、名族大 内家は事実上に歴史の舞台から消え去ったのである。

 義隆が終始一貫頼みとしていた津和野の吉見正頼を抑えて、二番手とも見られていた毛利元就が結果勝利を握ることになった理由ははっきりしている。吉見が中山間部に堅城を敷く陸軍専門兵力であったのに対し、元就が運用する毛利軍は海軍と陸軍のバランスがとれたより機動性の高い軍事編成だったからである。この伝統は近世萩藩の組織編制に引き継がれて、陸上勤務の大組(おおぐみ)と海軍の船手組(ふなてぐみ)が家中同格として処遇されてきた。

 さて、厳島の奇襲戦に勝利した元就は兵を休める暇もなく西へ躍動した。弘治3(1557)年4月2日、山口高峯(こうのみね)城を捨てて長府の旦山(たんざん)城に落ちた大内義長は、実家の大友家へ亡命しようとする鼻先を、関門海峡を扼す村上水軍に押さえられてかなわず、翌3日功山寺仏殿で自決した。

 義隆の遺言を受託した正義の復讐戦。大内家の版図を丸ごと相続する支配の正統性をこの一点にこそおく元就は、戦局の見通しがつくや直ちに大内家殉難の現場大寧寺を復旧して、この秋、奇しくも正当七回忌を迎える大内義隆主従の一大鎮魂法要を営もうとしていた。大寧寺の復興は、すでに大内義長の指示で進められていたものであるが、元就はこの事業に大きな政治的効果があることを見抜いて積極的利用を決断したと思われる。つまり、大寧寺復興と大内一門の七回忌大斎会の執行は、内外に示す現下の毛利家の勝利宣言に他ならなかった。それと共に、幼少時から戦乱に明け暮れてきた老練の元就が、この勝利をしおに領国内に文字通り平和の時代を築こうという呼びかけを公示する、きわめてメッセージ性の高い企画ではなかったか。

 元就は、股肱の臣益田(ますだ)氏に特命して大寧寺境内の復旧整備を急ぎ、生国の壱岐の島に引退していた第十三世異雪慶殊(いせつけいじゅ)和尚の帰山を促してこの重要な法会の導師に招聘した。異雪禅師がこのとき述べた法語、説法、問答の内容は寺誌に残されている。法華経の熱心な信仰者であった斎主毛利元就は、新装なった大寧寺の山門に高々と「願文」を掲げ、大勢の僧侶によって法華経千巻を読誦して戦乱の犠牲となった敵味方の英霊を供養したのである。「元就公願文」には、先ず法華経の徳を称え、毎年欠かさず千部の読経を続ければ 十年で一萬部の功徳を積むことになると主張した後にこう述べている。「不肖元就は一兵士として起こり闘戦に参加すること百余度、三尺の剣(つるぎ)のもとに殺傷した霊の数はほとんど数十万人にも及ぶ。願わくはこの法華経の功徳力に浴して、永きにわたって続く怨讐の絆を断ち切り、むしろ未来永劫に国土和平を護持する力に変換せんことを。毛利家の子孫は末代に至るまで不肖の請願を重んじて創業の艱難を忘れず、法華経の供養を途絶えさせてはならない。不肖元就は今天下の神々にこのことを誓う。」と。

 毛利元就公の祖霊を祭る山口市の臨済宗(りんざいしゅう)の洞春禅寺(とうしゅんぜんじ)では、現在もなお大勢の清衆が集合して法華経全巻を朗々と読誦する「法華千部会(ほっけせんぶえ)」法要が継承されている。日蓮宗の寺院以外で「法華千部会」法要を今に伝える地方寺院は寡聞にして知らない。洞春寺の豪快にして独特な法華経の読誦方法は「長州法華(ちょうしゅうぼっけ)」として知る人ぞ知る貴重な伝統である。元就公の請願を戴して、毎歳秋の大内忌に厳修されてきた大寧寺の千部会法要は今に伝わる洞春寺流の「長州法華」と同じ豪放な法要だったのではないだろうか。残念ながら大寧寺は近年この伝統を失ってしまった。

                                      文:徹翁啓靖




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