HOME大寧寺ものがたり>六百年の歴史をひも解く 西中国大僧録

中西国大僧録(そうろく)

 復旧された大寧寺で大内義隆父子ならびに殉難関係者の七回忌追善法要を大々的におこない、天下に粉れもない大内家の相続者たる地位を宣言した弘治(こうじ)3(1557)年の秋以降、毛利家の領国経営は、順調に進捗した。依然として東九州の大友氏や出雲の尼子(あまこ)氏と紛争を繰り返しながら支配地域を拡大しつづけ、永禄(えいろく)年間(1560〜1570)には中国地方のほぼ全域を押さえるにいったたのである。必然、天下布武(てんかふぶ)の旗を掲げる織田信長と雌雄を決する対決の刻は迫る。しかし、毛利征伐に向かう旅すがら、信長は明智光秀の謀反により京都本能寺(ほんのうじ)で急死した。 1582年6月の「本能寺の変」は、歴史が毛利家に微笑んだ二度目の僥倖だった。この機に信長の後継者豊臣秀吉と和睦し、あれこれ込み入った交渉の末に中国地方八カ国(安芸、備後、周 防、長門、石見、出雲、隠岐、更に伯耆と備中それぞれの半国、合計八カ国)112万石の領地が確定したのでる。この時期の天正11(1583)年、国主輝元公が祭主となり、8月20日から19日まで200名の僧侶を請して義隆公ならびに共奉戦亡の諸群霊三十三回忌の大共養を行っている。法華経二千部が読誦された。導師は輝元公の帰崇篤い当代の碩学大寧寺十五世関翁殊門(かんのうしゅもん)禅師であった。

 来る1600(慶長5)年、関ケ原の決戦で敗れるまでの短い期間ではあったが、八カ国時代の毛利家の威勢は天下を睥睨するものであり、応仁の乱以降台頭してきた地方武士団の中核を占め、地の利を活用した地上貿易やグローバル経済によって着々と実力を蓄えてきた西日本の有力地方豪族の頂点に位置する存在になったのである。信長は、大内・島津・毛利等の経済戦略に近い開国・開港主義を採り、キリシタンを寛容に受け入れる進取の姿勢を示していたが、実質的に国内統一を実現した秀吉は、「日本」あるいは「日本人」という国体意識を強く抱くようになり、権力基盤の安定のために海外流入勢力を抑止する政策へカジを切り始めた。燎原の火のように拡散するキリシタンの排他的一神教に危険思想の臭いを嗅ぎ取り、外来商人による傍若無人な「人身売買」への嫌悪感がこの方向転換のきっかけだったといわれている。この政治哲学は徳川幕府に引き継がれ、「キリシタン追放令」や「鎖国令」というきわめて厳格な 閉鎖的国策へつながることになる。

 大内時代後期ならびに八カ国時代の毛利家の後ろ盾をえて、大寧寺は熊本以北の北部九州、壱岐、五島、西中国一帯の曹洞宗寺院を管轄する大僧録司という地位に任じられていたようである。「僧録」とは、僧侶の自治的な管理に当たる官名で、宗派内の重要な儀式、紛議調停、人事、財務などをつかさどった。同じような職掌に「僧正」(そうじょう)とか「僧綱」という官職もあるが、「僧録」(そうろく)は中国唐代からおもに禅 宗の中で使われてきた用語法である。禅宗が、武士階層と結びついて重要な勢力なってくる室町期には幕府と臨済宗五山のつながりが強化され、五山の臨済僧が国家権力を代弁する僧録司に任じられる慣行が確立していった。これに準じて曹洞宗では、後に徳川幕府が公布した「曹洞宗寺院法度」(1612年)に基ずく僧録制度以前は、その高徳をもって、勅命(南北朝時代の応永年間)により丹波の永澤寺(ようたくじ・現兵庫県三田市)通幻寂霊(つうげんじゃくれい) 禅師が日本国曹洞宗の大僧録に就いた。そのため、この通幻禅師の高弟たちが、新興武士団に浸透していく曹洞宗の地方分派をコントロールすることになったのである。通幻派の中でも特に西南日本では、鹿児島出身の石屋真梁禅師(せきおくしんりょう・大寧寺第一祖)のリーダーシップが大きく、近畿・四国地方の寺院・僧侶は寺院丹波永澤寺(ようたくじ)の差配下に属したものの、南九州三カ国の僧録は石屋禅師の本拠地である薩摩の福昌寺(ふくしょうじ)が管轄し、残余の西日本各地については同じく石屋禅師の開山寺である深川の大寧寺が「中西国大僧録」として宗門行政の総括業務に当たることになった。後に徳川幕府の開設にともなって関東地方の重要性が増した一時期には、永澤寺を中心とする既存の西の仕置きと新たに幕府を背景とする東の仕置きが二重構造となって混乱した気配も窺われる。やがて徳川幕府体制が安定に向かう過程で僧録制度の東西一元化がはかられ、幕府寺社奉行のもとに関三刹(かんさんさつ・下総の総寧寺、武蔵の龍隠寺、上野の大中寺)が曹洞宗の触頭(ふれがしら)として新たに大僧録の任にあたることとなったのである。

 しかし、中世以来の大寧寺の権威は尊重され、それぞれの分国内に設置された在国僧録寺とは別に、西日本全域に及ぶ寺院法度のしおきについては、少なくとも江戸時代初期においては、永澤寺、薩摩の福昌寺と相謀って長門大寧寺が関与し続けたようである。この権威のゆえに、本来天台宗寺院に祭られるべき徳川家康の位碑「東 照大権現」の奉安所が、毛利藩においては特別に曹洞宗の大寧寺とされたのである。この事実は、江戸中期に至って、外様 (とざま)大名である毛利家と幕府権力の間に微妙な政治問題を壊胎する遠因となった。上野の寛永寺が仕掛け、皇室周辺をも巻き込むことになる生臭い政治・宗教スキャンダルの顛末については、後日稿を改めて報告する。 

                                      文:徹翁啓靖




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