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江戸時代の入り口にて

 徳川政権は「武家諸法度(しょはっと)」、「公家(くげ)諸法度」、および「寺院諸法度」という三本の政治綱領を家康じきじきの朱印状という強い形で次々に発布していった。こうした幕府の方針に沿い最初に寺社に関する政務を担当したのが家康特命により全権をにぎる天下僧録司(そうろくす)、臨済宗の金地院(こんちいん)住職以心崇伝(いっしんすうでん)だった。家康の名前で交付された宗教組織への政令(ご朱印状)はこの時期すべて崇伝が起案したとされている。寛永12(1635)年、崇伝の死去によって空席となったポストをうずめるために、幕府は定員4名、将軍直轄、大名役という格の高い寺社奉行職を設置していくことになる。 慶長17(1612)年5月28日付で家康の朱印状「天下曹洞宗法度」の写しが、幕政に組み込まれた関東の有力寺院三カ寺(関三刹(かんさんさつ))連名の通達として大寧寺に届いてはいる。ただし、更にこまごまとした指示や条件を付した同趣旨の布達は、大寧寺の資料で見る限り、元和9(1624)年頃までに大本山總持寺から「日域(にちいき)曹洞宗諸法度」として伝えられた。基本となる内容はほぼ次のとおりである。

一、 30年の修行を達成した僧でなければ、法幢(ほうどう)を立ててはならない事
 (30年以上の修行実績がなければ、僧侶を養成する法座の師家(しけ)にはなれないという規則)

一、 20年の修行を成就していなければ、江湖頭(ごうこがしら)になってはならない事
 (20年間の修行実績がなければ江湖頭、すなわち江湖会(ごうこえ)の首座(しゅそ)になってはならないという規則。 江湖会とは安居(あんご)とも呼び夏・冬二期それぞれ90日間の厳しい集団修行を行うことで、その主席を勤めて上級僧侶資格の認定を受けるのが江湖頭、すなわち首座である。)

一、 寺中追放の悪比丘(びく)は、諸山において許容あるべからざる事
 (寺を破門された悪僧は、どの寺も決して受け入れてはならないという規則)

一、江湖頭(ごうこがしら)をつとめた後5年経たない僧ならびに修行未熟の僧は、転衣(てんえ)してはならない事
 (20年の修行を積んで首座となり、その後5年間の修行を加えてはじめて色衣を着ける転衣という資格を認めるという規則。 転衣は住職となる基礎資格であるが、出家得度の後、少なくとも25年以上を経なければ一カ寺の住職にはなれなかったのである。)

一、 末寺は、本寺の法度に違背してはならない事
 (末寺は本寺の掟に従わなければならないという規則)
「右の条々にもし違背する者があれば、寺中追放すべし。」

 このように徳川幕府が厳然たる処罰を伴う規則を公布したことによって宗教界の組織体質は大きく変化しはじめる。曹洞宗の僧侶がこの五か条のどれかに違反したならば直ちに「ムラ八分」になり僧侶の世界から追放される。宗教者としての特権や分限が制約されるだけでなく、生活や生存が具体的に脅かされることになった。この厳しい寺院法度の履行を監督管理する特権を幕府(中央政府)から公許され、藩主(地方政府)に追認された有力寺院が「僧録寺(そうろくじ)」なのである。幕藩体制が成熟に向かっていく過程と平行して、生臭い「僧録」権をめぐる寺院間の争いが露骨になっていく事情は想像に余りある。また、この権力闘争の帰結として徐々に寺院間の「本末関係」が問題になり厳しく秩序付けられていったのである。

 こうした情勢の中で、「中西国大僧録」という旧来の権威にすがろうとする大寧寺は、幕藩体制の中で勢力を伸張していく防長の有力寺院(周防龍文寺、周防瑠璃光寺、萩海潮寺、等)を牽制するためであろうか、なんと59件もの証拠を挙げて永平寺、 總持寺の両本山へ自らの権威をしつこく陳情している文書がある。かって地方の実力者によってはぐくまれた野性味に富んだ法権は、ここにきてついに中央の政治手段の一端に組み入れられていく歴史段階となった。文中に次のような一節がある。

「大寧寺檀那(だんな)松平長門守(毛利秀就(ひでもと))殿、親父(おやじ)(毛利輝元(てるもと))の代より寺領六百石付け置かれ候事、大内代々の菩提所、又は古来より西国之一寺たる故にて候、又権現(ごんげん)(徳川家康)様・台徳院(徳川秀忠(ひでただ))様・崇源院(秀忠室(しつ))様三台霊の御位牌所としてこれを立て置かれ候なり。この由天下御国廻(おくにまわり)之衆(幕府の地方監察使)に住職より披露申し候所に、御上使仰せられ様にも、長門の守殿御真実之儀感じ入り候、天下様(徳川家光)に言上申しあげるべき由、即刻記帳され候事」
 幕府にも毛利藩にもじょうずに取り入ろうとして気を使っている寺の雰囲気が伝わる文面である。

                                      文:徹翁啓靖




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