HOME大寧寺ものがたり>六百年の歴史をひも解く キリシタン禁制の微妙な影響

キリシタン禁制の微妙な影響

 江戸幕藩体制は、三代将軍徳川家光(いえみつ)の治世下寛永年間の後半(1630〜1641年頃)においていわゆる「鎖国」という国家デザインの立ち上げに成功した。奉書船制度で海外渡航を厳しく制限し、やがてすべての日本船の渡航を禁じて海外帰国者は死刑、唐船の入港も長崎港に限定し、出島を築いて南蛮貿易を完全な国家管理下に置こうとした。この露骨な政策に反抗する地方エネルギーが1637〜8年の「島原の乱」として噴出したが、中央政権の完勝に終わったのである。この制圧は、キリシタン禁教という宗教政策を表にかかげて徹底されたが、その裏面には、西国地方武士団の既得権益となっている経済力、情報力、武力の源泉たる海上権の破壊とこの権益の幕府独占という的確な政策目的があった。現実に新政権を揺るがす恐れのある西国雄藩の力をそぎ、利益率の高い海外物産貿易を国庫の財源として独占する。このいささか疚しい権力の本音を糊塗するため表向きの理由として「キリシタン禁止令」が徹底的に利用されたのである。この政策は経済問題としてではなく、宗教、思想、民族問題として推進され、歴史の事実としては見事に成功したとみるべきであろう。

 フランシスコ・サビエル以来西日本各地に一大勢力を布設していたカトリック(旧教)とポルトガルが追放され、宗教改革によってカトリックに敵対する新勢力となったプロテスタント(新教)国オランダが幕府と提携して出島の商館の新しいあるじとなった。キリシタン弾圧の火は燃え盛り、この時期のわが国の邪宗門狩りはヨーロッパ近世初頭熱病のようにひろがった「魔女狩り」を彷彿とさせるほどの様相を呈した。「宗門改め」や「人別改め」という強権行政に導かれて近世の村社会=生活共同体は確実に変容していったのである。キリシタンではないという証明を村の寺院が行う「寺請け制度」が公布され檀家・門徒制度を強制的に促進した。「我が寺の檀家・門徒ではない」と証言されたら一巻の終わりである。地域社会に立地する寺院が住民を支配する特権と引き換えに体制維持を図る治安行政の一端を担う仕組みとして展開することになった。下って明治維新段階で仏教弾劾の激しい嵐が巻き起こったのは、宗教施設としての寺院に対する批判ではなく、本質的には、住民を監視したり収奪したりする治安行政施設としての寺院の側面に対する怨念であったに違いない。

 さて、述べてきたような徳川政権の内向性がゆるぎないものになっていくにつれて、中世以来、大内家、島津家、毛利家といった西南雄藩と結託して東アジアへの「海の路」の構築と維持に関与してきた大寧寺一門は、従前の経済地理学的な存在理由を大きく失うことになる。西日本屈指の寺院集団として同門の山口市泰雲寺、同瑠璃光寺、周南市龍文寺などと共に、大寧寺もまた新しい適応の道を模索しなければならなくなった。ドップリと地方政権に置いてきた軸足を、少なくとも半分は徳川幕府への恭順と翼賛に切り替えなければ生存できない。皮肉なことに、「キリシタン禁止令」をふりかざして通商ルートの遮断を狙う鎖国政策の施行は、西南日本各地の海岸線や島嶼の国境地帯が現場となる。経済的な理由によって津々浦々に整備されてきた末寺組織は、反転してキリシタン監視の政治目的に有効に活用されることになった。この段階では、天草地方への進出が際立つ瑠璃光寺関係者の存在感が大きいが、玄界灘一帯に勢力を張る大寧寺も、キリシタン監視の先兵として幕府が天領の長崎に設立した晧台寺(こうたいじ)に政府命令で赴任した住職も存在していて、徳川幕府の思想政策に深く関与していった形跡はぬぐえない。

 一方、関ヶ原の敗戦で四分の三にもおよぶ大減俸をくらって外様(とざま)大名 に格下げされた毛利氏に幕府は根強い警戒心をもって対応していた。幕藩体制の初期においては、おそらく大寧寺が、毛利家の幕府に対する恭順の意を表現する政治的メッセージの「場」だった。それは、毛利氏が大内家の正当な後継者であることを天下に公示した創業の「場」が大寧寺だったことを根拠とし、加えて幕府寺社奉行筋と大寧寺の関係を考慮して慎重に選択されたはずである。そうでなければ、極端な財政難に陥って困窮のきわみにあった萩藩が自らの氏寺でもない大寧寺に570石もの大禄を給し、東照宮(家康)以下徳川家要人の尊牌を祀って国主の名で供養の斎会(大法事)を主催した謎が解けない。 また、大寧寺境内に毛利家の永代家老(えいたいかろう)、寄組(よりぐみ)(7000〜250石)大組(おおぐみ)(1500〜15石)などの藩臣の分骨墓がきそって建立された謎が更にわからない。事情は単純なのではないか。毛利家は、防長二州に追い込まれた萩藩の創業当初、幕府の厳しい監視の目を十二分に意識したがゆえに、大寧寺を通して徳川幕府への従属和合を発信するきわめて重要な政治劇場だった。事実、島原の乱その他で徳川幕府の土台が揺さぶられた時期にあたる四代毛利秀就(ひでなり)公の治世下で大寧寺への手当てが篤く行われており、幕府の権力基盤が安定して大寧寺の政治的役割が終焉した正徳、享保年間(1710年頃)以降は、御一門や上級藩士の墓建立は影を潜めてしまうのである。

 萩藩が大寧寺をどのように処遇していたか。当時の大寧寺の経済はどのようなものであったか。湯本温泉はどのように管理されていたか。どんな行事や生活を行っていたのか。資料を拾いながら、次稿以後少し具体的に説明してみたい。

                                      文:徹翁啓靖




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