HOME大寧寺ものがたり>六百年の歴史をひも解く 御脳所大寧寺

御脳所(おなやみどころ)大寧寺

 江戸時代の初期、萩藩は、もっとも警戒が必要な外様(とざま)大名として幕府のブラックリストの筆頭に載っていた。 ヨコならびだった徳川家と毛利家の関係はタテ関係へと強引に切り替えられて中央政権に服従する身分とはなった。だが、 世情や人情はこの変化に簡単にはなじまない。両者の間にはピリピリした緊張があった。この時期の大寧寺は、幕府に恭順の意思を表明する政治的な「場」の一つとして、毛利家によって支援されまた運用された可能性が強いのである。

 一八世鉄村玄?(てっそんげんさく)禅師(1607〜1622)から、勅命に依り「本照禅一禅師」の禅師号を賜った二〇世国嵬宗珍(こっかいそうちん)和尚(1626〜1639)を経て、 二四世燈外芳傳(とうがいほうでん)禅師(1658〜1677)に至るこの時代の住職は、いずれも毛利家国主のメガネにかない曹洞宗史上に名をとどめる巨匠たちであった。 萩藩は、大寧寺を藩の正式な「御請待地(ごしょうたいち)」と位置づけ、新しく住職が入院する際には必ず藩主の名代が差し向けられた。当番の寺社奉行が御名代を務める慣わしで、 新命住職の祝国開堂(しゅくこくかいどう)において「御名代請拝三拝」の儀が執り行われたのである。また、重要な法要等で殿様が参詣される節には時の住職が昆布を携えてご挨拶に罷り出、 まず藩主から「御手昆布(おてこぶ)」を頂戴。続いて山内役寮七人ならびに寺家老にも二の間においてお目見えが許された。その折、住職へは拝領物、七役の者、家老にも金子の拝領が仰せ付けられる慣わしだった。 さらに軽いお茶漬け、吸い物、お菓子が給仕され、必ず住持が同室でお相伴に預かった。国主の退出に際しては、住職が役寮寺家老一同を従えて山門頭でお見送りをした。

 大寧寺家来を束ねる大谷平八家は、往古、薩摩の伊集院(いじゅういん)島津家から四世竹居正猷(ちっきょしょうゆう)禅師に付き添って移住した大谷弾正の末裔で、 江戸中期の平八代で十三代にわたり寺家老の職を相続してきた。その下に波多野武兵衛、大谷太郎佐衛門、齊藤要人(かなめ)、大谷玄柳、藤岡武吉、 および山本佐佐衛門(さざえもん)の薩摩出身の寺侍世襲六家が大寧寺の中間(ちゅうげん)として所属しており、萩藩は彼ら七家の寺侍を陪臣(またもの)と位置づけてその特権を認めていた。 寺家老大谷は、他出往来の際には槍持ちを従える習慣であり、また、住職の輿廉には必ず騎乗で随行した。湯本温泉は「温湯(恩湯とも呼ぶ。)」と「禮湯」の二ヶ所に分かれており、 それぞれ大寧寺家来が湯別当(ゆべっとう)として管理していた。一般湯治客に開放されていた「温湯」の湯別当は大谷太郎左衛門家の担当で、それぞれ湯銭高の違う上湯坪、中湯坪、下湯坪の三湯壷を管理していた。 「禮湯」は元来大寧寺衆僧の湯治所(修行僧は三と八のつく日に入湯する定めとなっている。)で俗人禁制の札が掲げられてはいたが、中は上湯坪と下湯坪に分かれており、下湯坪は地域の人たちにも利用できるようになっていた。 こちらは、代々波多野武兵衛家が湯別当を勤めた。俵山温泉や川棚温泉、湯田温泉の経営が萩藩直営に組み込まれたのに対し、湯本温泉だけは故事により「大寧寺抱え」としてその湯銭収入は寺の経営費に充当され、 本藩は湯坪石として五石一斗二升を充てた。藩が全体を直営する俵山温泉の湯坪石が百石を超えているのに対し、湯本温泉は藩直営の「御茶屋」(藩主の湯治施設。幕末には大寧寺預けとなる。)の管理費相当分が計上されていたもので、 湯坪石高の大差は、必ずしも俵山温泉と湯本温泉の規模の差を反映しているものではない。一八世紀の前半にまとめられた萩藩の行政資料『地下上申(じげじょうしん)』に依れば、俵山温泉湯町(ゆまち)屋敷二十二軒。 これに対して湯本温泉湯畑(ゆノはた)は中・小屋敷あわせて三十軒。両温泉は江戸時代を通じてほぼ似たような規模だったと思われる。

 萩藩は、輝元公、秀就(ひでなり)公御判物によって大寧寺の寺領を五七〇石と定めた。 大方は、大内時代、毛利家八ヵ国時代の実績を踏襲するものだが、長い江戸時代を通じて多少の異動はあったものの幕末までおおよそこの水準を維持した。 初期の五七〇石の内訳は、徳地串村において一五三石一斗、大津郡蔵小田村において六〇石九斗、深川庄において三五〇石、その他山野共に引き合わせて合計高五七〇石である。

 大寧寺七堂伽藍のうち、萩藩が公費で普請管理に責任を持つ建築物は図面上「朱引き」で示され、本堂、下祠堂(かしどう)(御位牌堂)、 大庫裡(くり)(台所)、山門、大門、総廊下が毛利家の「御脳御普請所(おなやみごふしんしょ)」(御脳所(おなやみどころ))とされ、その他残余一切は大寧寺の経費で支弁する 「自作事所(じさくじどころ)」として「墨引き」図面で管理された。失われた国宝級の文化財である大山門や回廊の維持責任は、大寧寺開創以来一貫して地方政府が担ってきたのである。 現状に照らして回顧すればいささか文化財行政に対して鬱憤を晴らしたい気分にもなる。

 右のような萩藩の支援の下に、江戸時代前半の大寧寺は、幕府の宗教政策を追い風として教線を目覚しく拡張していった。 寛保元(1741)年9月25日、時の住職大寧寺三一世獨産霊苗(どくさんれいびょう)禅師が萩藩井上武兵衛寺社奉行宛に提出した報告書によれば、 自他国大寧寺直末(じきまつ)寺五四ヶ寺、又末(またまつ)寺四五九ヶ寺、都合五一三ヶ寺の大教団に発展したのである。

                                      文:徹翁啓靖



▲ページトップに戻る