HOME大寧寺ものがたり>六百年の歴史をひも解く 応永年間の温泉開発

応永年間の温泉開発

 わが国の旧体制を徹底的に攪拌した南北両朝の対立が終焉し後小松天皇の下に足利義満の室町幕府が立ち上がった1390年代は、まさに典型的な「世紀末」の様相をそなえていた。古き良き時代は去り、新しい時代はいまだ霧のかなたに混沌としていた。日本人の新たな生活の枠組みを模索するエネルギーが激しく地方分権を促すことになった。この時期の特殊な気分を代表する「応永(おうえい)年間」は33年間もの長きに及んでいる。

 南九州の島津元久や西中国の大内義弘はこの時代の政治紛争に介入して地方国主としての勢力を飛躍的に拡大していった。こうした地方の躍進をバックアップした顧問団の主力が、当時新興の禅宗教団だったのである。薩摩伊集院島津家の出身で長い中国留学歴を持つ国際人、学徳兼備の禅僧である石屋真梁(せきおくしんりょう)禅師とその弟子たちは、連携プレーを進める外交官として、地方行政を支援するコンサルタントとして、また、産業振興や道路・港湾の整備などを指導する技術者として、東アジアの海をにらみながら盛んに国づくりを進めていく大内一族に重用された。この石屋グループの元締めとして縦横に腕を振るったのが高弟の竹居正猷(ちっきょしょうゆう)禅師である。

 竹居正猷は、応永年間の早い時期に山口方面へ入り三つの重要な禅宗寺院の創建を指揮した。一つは、大内本家の拠点である大内御堀(おおうちみほり)郊外に建立された闢雲(びゃくうん)禅寺(後に泰雲(たいうん)寺と名前が変わり、山口市小鯖鳴滝に移転)。もう一つが、陶(すえ)(大内)家の堅城長穂(ながほ)城下に造立された龍文(りゅうもん)禅寺(周南市長穂)。そして三つ目は、長門北浦の鷲ノ頭(大内)家を開基とする大寧禅寺なのである。この三ヶ寺は、いずれも応永年間のほぼ同じ時期に防長二州の重要な政治拠点に設置された行政色を帯びた知的機関だった。南の大内本家、北の鷲ノ頭家、そして東の陶家を結ぶ禅の寺の三角形から、 15世紀初頭の応永年間、東アジアの海を財源とする商業資本の蓄積を背景に虎視耽々と政治中枢への関与を窺っていた「大内シフトの夢」が見える。

 さて、大寧寺の拡張整備を指揮していた竹居正猷は、兄(あに)弟子にあたる智翁永宗(ちおうえいしゅう)を日向から招いて大寧寺第二世に当てた。だが、彼が三年を満たずして遷化したために、山口の闢雲(びゃくうん)寺経営を担当した のち山陽小野田市の瑞松庵(ずいしょうあん)に隠棲していた高齢の定庵殊禅(じょうあんしゅぜん)を大寧寺の第三世に再登板させ、長門守護代に任ぜられる前夜で日の出の勢いにあった鷲ノ頭弘忠の為政を共同で補佐したものと推定される。いずれにしても、応永33(1426)年には竹居正猷は定庵殊禅と一緒に大寧寺で暮らしていた。鷲ノ頭家は、北浦地方の産業開発を新しい世界観に立って「海」と「山」の両面から積極的に進めていた。こうした新事業の一環として温泉資源の開発にも関わったのではないだろうか。温泉資源の管理と産業化が、大寧寺の役割として付託されたのだ。

 寺伝に拠れば、湯本温泉も俵山温泉も同じく応永34年大寧三世定庵殊禅和尚の関与によって開発されたこととなっている。が、これはハッキリとした目的を持つ作為であって、温泉がそれ以前に地元の人々に利用されていなかったはずはない。俵山温泉も湯本温泉も太古よりこの地にあった。ただ、権力が介入して温泉資源を行政の管理下に置き、アクセスや利用施設を整備して、湯治と慰安をウリにした新しい地域サービス産業に変換していったのが応永34年前後の出来事だったのだろう。官寺である大寧寺がこの新しい温泉政策の展開を請負い「大寧寺抱え」として中世の俵山温泉と湯本温泉の管理運営を担当したと考えるのが自然である。もう少し時代が下った毛利時代の温泉管理の実情については別に稿を改める。

 この時期以降世に喧伝されるようになった俵山温泉と湯本温泉の縁起譚には、いくつかの類似性がある。ともに神話の形を借りて温泉と大寧寺の関係が強調されていること。当時勢力のあった熊野権現(俵山)と住吉明神(湯本)を勧請して定庵殊禅と結びつけ、神仏によって担保された霊験あらたかな薬効が印象付けられるように工夫していること。温泉管理のため現地に大寧寺の塔頭(たっちゅう)が設営されたこと。などである。定庵和尚に感応道交して仏道に帰依した住吉神が報恩のために湯本温泉を湧出させ大寧寺に贈ったという縁起も、有名な俵山温泉の白猿伝説も、極端に大寧寺第三世和尚の威神力を誉めそやす構図になっている点、その分だけかえって裏に有力な宣伝企画マンの意図を感じさせ文脈である。

 問題の応永34(1437)年、大寧寺住職は確かに定庵和尚ではあったが、実際には、法弟の竹居正猷に請われて隠居所から引っ張り出された高齢のピンチヒッターであり、数年後には逝去して後事すべてを竹居和尚に託すことになるような状況だった。定庵より7歳年下の大寧寺第四世竹居正猷禅師は才能豊かな真の実力者で、結局大寧寺に約30年間止住し境内並びに七堂伽藍を整備して門風を天下に高からしめた。その政治力と学徳は四海に聞こえ、関東管領の上杉憲実が大寧寺に参究することになったのも竹居禅師在ってこその史実なのである。温泉の整備は、おそらく竹居正猷和尚のリーダーシップで進められていった。先輩にその名誉と功績を譲り、自らの大寧四世という法位を形而上の住吉明神に明け渡した荒業は、途中に鷲ノ頭家の終焉という悲劇が介在したとはいえ、余人に真似のできない凄みのある発想だった。海上運輸を守護する住吉明神と、山の途を押さえる修験の熊野権現を取り込んで温泉開発を目論んだ竹居正猷の才能あふれる構想が、近世以降、湯本温泉と俵山温泉の発展の基礎となった可能性は高い。

                                      文:徹翁啓靖




▲ページトップに戻る