HOME大寧寺ものがたり>六百年の歴史をひも解く 七堂伽藍 中世の大学

七堂伽藍 中世の大学

  大内家28代の当主である教弘(のりひろ)公の庇護をうけ中興の祖大寧寺四世竹居正猷(ちっきょしょうゆう)禅師の指揮下で始まった寺域・境内の整備は、その後、29代政弘(まさひろ)公、30代義興(よしおき)公、そして悲劇の主人公となる31代義隆(よしたか)卿にいたる大内家全盛時代の追い風をうけて着々と進められていった。特に義隆の父義興の治世下で大内家の威勢と財力は極点に達し、強力な軍事エネルギーが徐々に文化創造エネルギーへと転換されて、世に言う「大内文化」の令名は満天下の耳目を曳く存在になっていた。代表作「南総里見八犬伝」で知られる幕末の人気作家曲亭馬琴の「近世説美少年録」に、西国の太守大内義興の縦横無尽な活躍が描かれており、江戸市民があこがれるキャラクターの一人だったことがわかる。おそらくこの時期、大寧寺は、大内一族の帰依と支援の下に曹洞宗門の気鋭の禅林として活躍する態勢が整えられたものと推定される。

 一般に、大規模な仏教寺院に建ち並んでいる数多くの建物群は、総称して七堂伽藍(しちどうがらん)と呼ばれる。伽藍(がらん)といういかめしい言葉は、インドの古語サンスクリットの当て字で、現代日本に氾濫しているカタカナ表記の横文字と同じ使い方である。七堂とは実際の数ではなく、必要な建物を備えている大寺院という意味で使われ、時代や宗派によって伽藍の種類や呼称は異なってくるが、いずれにしてもフルセットの施設を持ち、大勢の僧侶が集団生活をしている大寺院が七堂伽藍と呼ばれ、本山クラスの機能を備えていなければならない。大内時代後期の大寧寺は、まさに七堂伽藍足らざるものなく完備しており、ここ北長門の一角に修行弁道にいそしむ学人が絶えず螺集していた。今をさかのぼる300年ほど前に実測された資料により、大寧寺境内の七堂伽藍が約30の構造物から構成されていたことがわかる。

 基準に沿った七堂伽藍を備えている禅宗寺院は、その当時のいわば大学ないしは専門学校であった。一般に叢林(そうりん)とも呼ばれるが、往時の大寧寺は、いわば公立の宗門大学の一つであったといえばわかりやすいかもしれない。ヨーロッパにおける大学の発達は、キリスト教の教会に付属する修道院に始まった。神学研究をコアとするカリキュラムが次第に広範な世界理解へと拡張していった制度が今日の大学なのである。叢林、禅林、学林、僧堂と呼び名はいろいろであるが、いずれもその本質は一つ。各地から意欲と才能を持った学生(がくしよう)が集まり集団での規律正しい研鑽と修行と知的創造とを目指す寄宿制の道場=学校に他ならない。大規模な寺院では、各寮舎や坊(ぼう)、もしくは塔頭(たっちゅう)、と呼ばれるカレッジに所属する学生(修行僧)を、講堂(こうどう)あるいは法堂(はっとう)と呼ばれるユニバーシティで統合する形態をとっていた。このカレッジを主宰する高徳の上級教育者が僧堂師家(しけ)であり、ユニバーシティを統括する総帥が禅師なのである。こうしたわが国中世の禅林、僧堂の営みの形や制度設計の思想は、中世ヨーロッパやイスラム圏の大学の萌芽によく似た段階まで間違いなく到達していたのだが、やんぬるかな、わが国の禅苑(ぜんえん)は、西洋世界の大学のような開かれた知的教育機関へ進化していく契機を持つことができなかった。その理由はなんだろうか。検証に値するわが国仏教制度史上の宿題である。

 禅宗寺院では、七堂伽藍のうちでも座禅を行う禅堂(ぜんどう)(僧堂、雲堂(うんどう))や研修生活を行う衆寮(しゅりょう)、また、健康と衛生を管理する典座寮(てんぞりょう)(台所)、便所、浴室などが重視され、それぞれ高い権威と能力を具えた専門指導者が配置され、あたかも住職である学長を補佐する教授陣のごとき役割を分担している。カリキュラムは、1年を二つに分割したツー・セメスター制(二学期制)をとり、それぞれが更に集中と分散の時期に2分割されて、僧堂に集合して参究に没頭する「安居(あんご)」の90日と、学習事項の実践や応用を目指し更にまた次の教育指導者を求めて自由に全国を移動する「行脚(あんぎゃ)」の90日のセットで構成されている。安居中に与えられ る1畳の生活空間は「単(たん)」と呼ばれ、そこで1学期の修行を履修した学人は1単位を取得したとみなされる。5単位、つまり連続して2年半の学業以上を修了した僧侶が「大己(たいこ)」としてはじめて上級学生の地位を認定される制度になっていた。

以上が16世紀段階における大寧寺の重要な営みであった。山門にはこの寺の主題となるメッセージが高々と掲げられていた。

「号して曰く西海の法窟(ほうくつ)、居る者はことごとく獅子の爪牙(そうげ)。指して曰く天下の禅林、来る者は皆龍象(りゅうぞう)の蹴(しゅう)とう(かがと)たらざるは無し 」

                                      文:徹翁啓靖




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