HOME大寧寺ものがたり>六百年の歴史をひも解く 二つの邂逅 東と西、生と死

二つの邂逅 東と西、生と死

 28代大内教弘(のりひろ) から30代義興(よしおき)、31代義隆(よしたか)へ。大内家の家業は磐石の展開を見せた。教弘は、1453年初めて大内家の 遣明(けんみん)船を出して成功し、李氏朝鮮からも特権的な勘合符(かんごうふ)を受けて大内氏の対外貿易事業を定着させた。やがて、応仁1(1467)年、日本史上に重要な意味を持つ「応仁の乱」が勃発して以来1477年まで10年間、打ち続く騒乱が京都の街を徹底的に破壊しつく た。この中世末の「失われた10年」が日本の社会と文化に与えた影響は大きく、「応仁の乱」以前と以後では、日本人の生活の仕方が根本的に切り替わってしまったと指摘する識者も少なくない。これより、いわゆる戦国時代の幕が切って落とされることになる。

 「応仁の乱」に西軍の先鋒として関与した大内29代政弘(まさひろ)は、乱を避けて地方豪族のもとへ流寓する関白以下の公家、学者、文化人を積極的に山口城へ受け入れ、この町が「西の 京(みやこ)」と異称される下地を作った。画聖雪舟もこの時期大内家の厚い保護を受けた文化人のひとりである。

 波乱万丈の生涯を送った政弘の後継として、1494年、18歳の嫡男義興が30代当主の座を襲った。以後、1528(亨禄1)年52歳で永眠するまでの34間にわたり、天才的な為政者、軍人、文化人として、義興がひたすら目指した国づくりの有様は、多様にしてかつ多彩である。国政においては将軍職をめぐる京都の権力闘争に深く介入し、地域利権をめぐって出雲 月山城(がつさんじょう)に寄るライバル尼子経久(あまこつねひさ)のと宿命の対決を続けながらも、国際商業貿易の充実推進は目覚しかった。1516年段階では大内氏がわが国の遣明船管掌をほぼ独占していたといっていい。

 わが世の春を謳歌する山口城で、1507年11月15日、図らずも運命の悲将となる大内義隆が呱々の産声をあげた。父義興30歳、母は側室内藤の娘である。 この慶事に先立つこと5年前の文亀2(1502)年、壱岐(いき)の国(現長崎県壱岐市)の郷ノ浦港に近い佐志家に一人の男児が出生していた。後年の天文20(1551)年秋、大寧寺において栄華の絶頂にあった黄門多々良朝臣(あそん)七州の太守たる44歳の大内義隆の自決を見守りその魂を心静かに寂滅の世界へ導く役割をになった、時に49歳の大寧寺第13世住職 異雪慶殊(いせつけいじゅ)禅師の誕生だった。

  さらにまた、義隆生誕の前年1506年4月7日には、数奇な運命の糸によって義隆と邂逅することになるもう一人の重要な人物が、ピレネー山中ナバーラ王国のサビエル城(現スペイン、ナバーラ州パンブローナ市近郊)で生まれていた。フランシスコ・デヤス・アスピルクエタ。後にカトリックの聖者に列せられるサン・フランシスコ・サビエルである。 サビエルは、神学生としてパリ大学遊学中、イエズス会の創設に参加しポルトガル国王の支援を得て東洋へのキリスト教布教に献身した。当時ヨーロッパは、ルターやカルビンの宗教改革の嵐に揺さぶられ、ローマン・カトリックの権威は地に落ち、心ある保守主義者たちの危機感が極点に達していた。こうした世情を背景に、過激な若い学生たちによって結成された反宗教革命運動のサークルがイエズス会の原点である。したがって、イエズス会の宣教師たちは、いずれも純粋で勇気と使命感に満ち溢れ、全世界の異教の土地にカトリックの教線を拡張する大事業に取り組もうとしたのである。サビエルは、アジアの新天地を指向するこうした先鋭な宣教師グループのリーダーだった。

 苦心惨憺のすえ、1549(天文18)年8月、薩摩の亡命武士アンジロウを伴って鹿児島山川港に上陸したサビエルは、慎重な情報分析を行った上で、日本の第一人者たる王は、京都の足利将軍ではなく西の京山口城に覇を唱える大内義隆を措いてなしと判断し、インド副王がゴアで調達したポルトガル政府から日本国王への数々の献上品を携えて、海路山口へ入城した。日本人がはじめて思想のレベルで西洋と向き合った東洋文化と西洋文化の画期的な邂逅であった。時に義隆44歳、サビエル45歳のともに男盛りの偉丈夫たちだった。

 ひるがえって、英雄義興の入寂をうけて1528(亨禄1)年、22歳にして大内家31代の座に着いた義隆の治世は、悲劇喜劇を織り交ぜながらもおおむね先代の繁栄を拡大していく順調な展開となった。銀鉱、銅鉱の開発が進み、対外貿易による富の蓄積は誰の目にも鮮やかだった。依然荒廃の続く京都から上級公家たちの山口留学が恒常化し、多くの芸術家や職人が移住して山口城内は繁昌をきわめていた。 このような大内一族の勢力伸張に伴って、大津深川庄の大寧禅寺は、第四世竹居正猷(ちっきょしょうゆう)門下の俊秀たちにより五世器之為璠(きしいばん)、六世 大庵須益(だんあんすやく)、そして大内政弘によって山口の瑠璃光寺開山に招聘された第七世全巌東純(ぜんがんとうじゅん)、八世足翁永満(そくおうえいまん)等々と、法灯はますますその輝きを増しつつあった。歴代住職や長老の多くは、若き日々、関東の足利学校に留学して朱子学の素養を得、儒学を基礎に独特の禅風を宣揚していった。その背後には、代々、大内一門の手厚い庇護があったことは間違いない。問題の第十三世異雪慶殊和尚に対しても義隆卿の帰崇はことのほか厚く、荘田800石を安堵したと記録されている。そして運命の天文20(1551)年旧暦9月1日、死活の切所に立つ44歳の大内義隆卿は、大寧寺仏殿に落剥の身をおいて5歳年長の異雪禅師と対峙していた。まさに生と死の邂逅であった。

                                      文:徹翁啓靖




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