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明治維新の秘話・大寧寺と豊川稲荷

 プロローグ

 お稲荷さんと聞けば、赤い鳥居と一対の白狐の像が目に浮かぶ。"向う横丁のお稲荷さんの……”と わらべ唄にもなっていて、日本人の原風景だ。五穀の豊饒を祈る村々のほこら、商売繁盛や開運招福を願う市民たちの守護神。お稲荷さんへの信仰は、古来から神道だいや佛教だというやかましい議論を超えて、日本人全体の心中に脈々と受けつがれてきた庶民の信心である。地域の風土にはぐくまれ宗派を問わず誰でも安心して近づけるお稲荷さんは、全国津々浦々に流布し現在でも推計八百万人の信者が居ると見られている。

 今日の趨勢からすると、稲荷信仰の流れはおよそ二つのグループに大別されよう。京都の「伏見稲荷」を総本社と仰ぐ神道の系列がひとつ。もうひとつは各地の寺院で鎮守として祀られている仏教系の稲荷である。このうちその実力で抜きんでているのが愛知県豊川市に鎮座する「豊川稲荷」で、禅宗の一派である曹洞宗の巨刹妙厳寺(みょうごんじ)を本山とする。伏見系稲荷は神様のお稲荷さん、豊川系稲荷は仏様のお稲荷さん、というわけである。

 ところで、遠く隔たった愛知県の豊川稲荷と長門湯本温泉の大寧寺のあいだに、地元の人々にあまり知られていない明治維新をはさむ面白い秘実がある。この物語は歴史の陰にうずもれて世間から忘れられているドラマを掘りおこし、宗教と政治がからみ合ったスケールの大きな秘話を紹介しようとするものである。

 物語の発端は大政奉還(1867年)に先立つ三年前、文久三年(1863年)に始まる。この年の五月、長州藩は下関で外国船を砲撃した。直ちに報復攻撃を受けたうえ、続いて幕府の催した長征軍にも惨敗した。絶体絶命の窮地の中で高杉晋作が武士、百姓、町人混合の自衛軍奇兵隊を編成して回天の契機をつくったことはよく知られている。同年八月、京都でも大事が起った。盟友薩摩藩と謀って京都守護職会津藩を攻め、一気に政権の転復を目論んだクーデター計画が挫折した。同志薩摩が長州を見捨てたのである。

天皇親政の大義をかかげ,長州と密盟を結んでいた三条実美(さんじょうさねとみ)ら尊皇攘夷派の公卿七人は、八月十九日早朝、夜来の雨をついて遠く西国の長州へ落ちのびた。世にいう「七卿落ち」である。八・十九の変をさかいに朝敵の汚名を着せられた長州藩は、機を移さぬ幕府の大規模な包囲攻撃を受け惨たんたる犠牲を強いられることになった。藩論は二分し、過激な尊皇派に対する怨磋の声がふきあがるのも当然だった。

 亡命を果たしたとはいえ、七卿にとって長州が安穏の地だったわけではない。転々と潜伏場所を替え官憲や世人の目を避ける地下の生活が続いたので、進歩的思想人の庇護が頼りだった。この時、大寧寺の四十五代住職簀雲泰成(きうんたいじょう)も三条実美一行をかばった。大寧寺には、遠く大内家滅亡のおり、義隆(よしたか)父子と悲運を共にした三条家の祖先公頼(きんより)公の墓がある。旧縁につながる思いが二人の親交を篤いものにしたのだろう。後日の実美卿の述懐の中にそれらしい記事が散見される。苦難の中にあった若き三条実美公と大寧寺住職の出合いが、後年「豊川稲荷」の大事に際して再び交点を持とうとは、神ならぬ身の知る由もなかった。

                                      文:徹翁啓靖




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