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明治維新の秘話・大寧寺と豊川稲荷

 文化大革命としての神仏分離

 回天の業なって時代は明治へ移る。"菊(天皇制)は栄える、葵(徳川幕府)は枯れる”御代となった。武士の特権が廃され、天皇を元首と仰ぐ四民平等の国民国家が十九世紀後半の日本に出現したのだ。かつて命からがら長州に亡命していた三条実美は、岩倉具視ら勤皇派の少壮公卿と共に中央政界へ返り咲き、明治天皇を補佐する顕職に就いた。

 大政奉還から廃藩置県へと新しい社会の骨格が徐々にその姿を現していくが、これと呼応して明治新政府はもうひとつの大仕事に取り組んでいた。文化大革命である。その中心が神仏分離政策であった。これは神と仏が同居している状態を禁止するという宗教政策である。江戸時代を通じて武士階級と密着してきた寺院の権力を殺ぎ、天皇を中心とする新しい政権基盤を強化するために神道を国教の位置につけようとするものであった。事実幕末の仏教批判や儒学批判はきわめて根強く、反仏教論者は即反幕府主義者ともいえるほどで尊皇思想は水戸藩や岡山藩の流れをくむ神学者たちによって育まれていったのである。だから維新政府の宗教政策が仏教を排して神道を立てる方向で断固たるものがあったのは当然だし、またこの方針を貫かねば倒幕運動に命をかけてきた勤皇の志士たちを納得させることは出来なかった。

 神仏分離は直接仏教の弾圧を意味するものではなかったが、世情の勢いは寺院の打ち壊しや仏像の破壊に走り、過激な排仏毀釈運動を誘発した。とりわけ維新の立役者となった西南雄藩の地元で寺院への暴挙が続発したので、仏教者の不安は深刻だった。薩摩藩の如きは、島津家の庇護を受けて栄えていた禅宗寺院が短時日のうちに全滅にひんするほどの惨状を呈した。長州深川庄の大寧寺は、江戸時代を通じて西国の僧録寺とされ、中国地方から北九州一帯の曹洞禅の寺院を管理する立場にあったし、西南日本の各地に沢山の末寺を抱えていた。武士階級の権力に支えられて繁栄していた一大シンジケートが恨こそぎ消滅してしまう現状を眼のあたりにして、時の住職簀雲泰成(きうんたいじょう)の心中は想像に余りある。尊皇思想に共鳴していても 、排仏毀釈を認めることは出来ない立場にあった。この危機感から、同じ心境にあった長州の儒学者大楽源太郎や富永有隣らとの連帯を強め、諸隊の脱藩騒動に連座する運命となった、明治元年から二年に かけての情勢である。
 この頃、神仏分離令の強圧は豊川稲荷を鎮守とする三河国妙厳寺にも押し寄せていた。

                                      文:徹翁啓靖




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