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明治維新の秘話・大寧寺と豊川稲荷

 防長脱隊暴挙事件

 維新政府の主導権を握って意気あがる山口藩だったが、明治二年(1869年)の冬、お膝元で天下を震駭させる大騒動がもちあがった。藩庁は、版籍奉還もなり平和への見通しが立ってきたので、藩内の膨大な野戦軍の整理に着手した。その年十一月二十七日、幕末以来歴戦の諸隊を解散し常備軍四大隊に軍縮する兵制改革が下達されるや、奇兵隊など諸隊の不満は一気に高まった。藩庁もこうした流れをある程度予測し、中央政府から木戸孝允を一時帰藩させて藩政改革の顧問に据える手筈を整えていたのだが、事態はその読みを超える急転回を示し一気に不穏な空気が県下全体にみなぎった。

 明治二年十二月一日、旧諸隊の中で人員整理の対象となった不満分子が行動を開始し、三日には遊撃隊ほか諸隊の兵約二千人が山口を脱走、勝坂の開門を破って三田尻に本陣を敷き山口の常備軍と睨みあった。常備軍はただちに山口から勝坂までの間に十八ヶ所もの砲台を築き、小郡方面の関門を固めて戒厳態勢に入った、防長脱隊暴挙事件の幕がきって落とされたのである。

 同朋相撃つこの内乱は、またたくまに県内に飛び火して一時は市民戦争の様相を呈した。だが木戸孝允指揮下の常備軍が巧妙な鎮圧作戦を展開し、明くる明治三年二月を境にして、三月、四月、五月と脱隊兵側の敗北はだれの目にも明らかとなった。優勢に転じた政府軍の苛劍誅求は厳しく、その後数年にわたって敗残兵の追討が全国規模で続けられた。この事件の顛末は、その後の山口県史、明治維新史の中で用心深く秘匿されることになった。表面上は山口藩の兵員縮小政策に不満をいだく武士団の反乱だったが、その背後には農政や税制に反発する天保期以来の百姓一揆のエネルギーが絡まっており、それにもまして、過激に進められる神仏分離政策や西欧化政策に危機感をつのらせていた伝統的知識人達の強い支持があった。御一新の先兵たる長州藩において、このような三層構造の反革命運動が成功すれば、必ずや全国に波及し明治新政府の基盤を揺るがすことになる。ことは一地方の問題では おわらない。山口藩の後ろに明治政府の断固たる支援態勢があり、右大臣三条実美の側近と綿密な連携がとられていた。特に、暴動の戦犯に対する苛酷な処刑方針は国家的見地から朝廷の指示に基づくものであったことは間違いない。逮捕者のうち切腹を命ぜられたのはごく一部の上級武士だけで、大部分の責任者は山口近郊や三田尻の刑場で斬首の上さらし首にされた。その数七十余名に及ぶとされる。

                                      文:徹翁啓靖




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