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明治維新の秘話・大寧寺と豊川稲荷

 活躍する豊川いなりチーム

 旧守派知識人の一角を占めていた大寧寺住職簣雲泰成(きうんたいじょう)は、有力末寺の和尚で厚狭毛利家の菩提寺洞玄寺(とうげんじ)の住職実音(じつおん)等と共に藩庁に抵抗した、直接には明治三年の大量処刑に抗議書を出したことにより政治犯として追及されるにいたり、この年六月以降秘かに大寧寺を出奔して寄るべのない亡命の旅に出たのである。目指したのは本山の永平寺ともいわれているが,結局は三河国の豊川閣にかくまわれることになった。

 明治新政府は、まっさきに神仏分離政策の基盤固めにとりかかり、矢つぎ早やに政令や条令を発した。早くも慶応四年(1868年,明治元年に当たる)三月には「太政官達」が出され、天王社または権現号など仏教用語を使用している神社はすべて神号に改めること、仏像を御神体とする神社は梵鐘や仏具などとともにこれを取りのぞくことが指示された。神社の独立をうながすこの「達」は、当の政府自身が心配するぼどの猛威をふるったらしい。半月もたたない四月十三日付けであわてて次のようなプレーキをかけている。「全国大小の神社の中には仏像を神体としたり、本地などと称して仏像を社前に懸け、鰐口、梵鐘、仏具等は一切早々取り除くよう申し渡したが、古くから社人と僧侶は仲が悪く氷と炭のような間柄である。今日に及んで社人たちはにわかに権威をもち、表向きは政府の命令のように唱え、実のところはこれに便乗して今までの私憤を晴らすような所業に至ってかえって政道の妨げとなるのみならず、争いごとを引き起こすのは必定である。そのようなことに至っては誠に迷惑……」とし、今後心得違いをして寺院に粗暴な振舞いをかさねる者があれば犯罪者として糾明する、と強く警告した。

 政府によるこの警告の背後には、排仏毀釈と称して仏教寺院を襲い仏様を破壊し、財宝を略奪し、ひいては寺院の打ち壊しや放火に及ぶ暴動のエスカレートがあった。社会変革の手段として文化破壊のエネルギーが利用されるのは歴史の常套だが、この排仏毀釈の嵐が吹きまくった数年 間にわが国の失った大量の仏教美術や貴重な文化財のことを思うと心が痛む。

 さて、神仏分離政策による具体的な圧力が旧三河国(現愛知県豊川市)の巨刹妙厳寺の鎮守である豊川稲荷社に及ぶのは、資料で見る限り明治四年(1871年)の春ごろからである。政府は当然のことながら、豊川稲荷(神)と妙厳寺(仏)をはっきりと切り離す方針で臨んだが、これに妙厳寺側が全力を傾けて抵抗した。徳川幕下の有力旗本がきそって信仰し、江戸期を通じて国民的な帰崇を受けて繁栄している豊川稲荷が分離されれば、本家の妙厳寺はたちどころに干上がってしまうだろう。曹洞宗の一大名門である寺院の経営が危機に追いつめられようとしていた。豊川稲荷側の立場は一貫していた。豊川稲荷の本尊は日本古来の神様ではない。インドから渡来したダキニ真天という仏教守護の仏天である。この一事を理論的に証明し、有力寺院の実力を殺ごうとしている政府の意図をくつがえさなくてはならない。騒然たる御一新の世情を背景に、しかも排仏毀釈の仏教排判がうずまいているなかで、言うのは易く行うは難い一大法難であった。

豊川閣は、しかし結局のところこの法難にうち克つのである.後世から見れば奇蹟ともいえる大事業であり、今日も豊川稲荷信仰の本社として栄えている妙厳寺の地位は、実にこの時期に定まったといってよい。そして、その大難を粘り強く、かつ、冷静に克服していく妙厳寺の傑僧たちのプレーンとして、世に知られることなく埋もれている大功労者がいる。山口藩脱隊暴動事件に連座し政治犯として追われた長門市深川庄大寧寺の住職、簣雲泰成(きうんたいじょう)その 人であった。全国に指名手配された重罪人を、官憲と神仏分離問題で不退転の対決をしていた妙厳寺がかくまったのである。これはまたどうした風のふきまわしだろうか。

                                      文:徹翁啓靖




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