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明治維新の秘話・大寧寺と豊川稲荷

 一歩も引かぬ豊川閣

 官憲に追われる政治犯をかくまうには、よほどの目算と度胸がいる。事実、明治三年から四年にかけてのこの時期、山口藩は明治維新政府とタイアップして諸隊暴動事件の残党狩りを全国規模で繰り展げていた。追われる簣雲泰成(きうんたいじょう)が、明治三年の冬までに三河国豊川稲荷妙厳寺に保護されていたことは記録によって明らかである。

 当時豊川稲荷の院主は妙厳寺二十八世の禅海霊龍(ぜんかいれいりゅう)。今日も語りつがれる名にしおう度量の持ち主だった。執拗な神仏分離の取り調べのさなか、いつ追手がかかるかもしれない処刑対象者をひ そかにかくまったのは霊龍和尚の英断だった。その後の事態の展開から見て、この決断が豊川稲荷の危離を救うきわどい布石になっていることがわかる。

 さて、翌くる明治四年になると豊川稲荷と妙厳寺を分離しようとする政府の圧力は一段と強まり、取り調べも本格化した。妙厳寺側としては、豊川閣の本尊ダキニ真天がインド渡来の仏教守護神であって決して日本古来の神祗ではない、つまり神様でなくて仏様だ、と一貫して主張するしかなかった。その主張は正論ではあるものの、当時の世論には評判が悪かったようである。なぜならば、それまでは寺自体が正式な書類や図面に「豊川稲荷大明神」という称号を多用していたし、現に奥の院や本殿の前には朱塗りの鳥居が多く立ちならんでいた。神仏習合の形はミエミエだったので、妙厳寺の主張は苦しまぎれの脆弁とも聞こえたのである。つまり、新政府がダキニ真天本殿を神社と認定し、寺院である妙厳寺から分離する根拠は十分あった。もしそうなっていれぱ、当時の情勢から見て妙厳寺は片田舎の一貧寺に衰えていった可能性が大である。皆さんは現在日本三 大いなりとして栄えている佐賀県肥前鹿島の「祐徳稲荷」をご存じだろうか。このお稲荷さんは、もともと鍋島家の貴婦人の為に建立された祐徳院という寺院の境内に鎮守として祭られていたものである。祐徳院と祐徳いなりの関係は、妙厳寺と豊川いなりの関係と全く同じ形だった。しかるに佐賀県鹿島の稲荷堂は神仏分離された。そして今日祐徳いなりが繁栄を謳歌している陰で、本家にあたる祐徳院は空しく朽ち果てて既に跡かたもない。

 明治四年から本格化する取調べに、妙厳寺は全力をあげて対抗した。「朝権の確立」が総てに優先されるこの時代に、新政府の政策に抵抗し反対意見を述べることはよほどの胆力を要した。ひとつ間違えぱ、朝敵の烙印を押されて弾圧を受ける。このような情勢の中では、単に正論を申し立てるというだけでは事の成否を期し難い。政府の意図に対抗出来るしたたかなかけ引きや政略の能力がなければならなかった。



                                      文:徹翁啓靖




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