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明治維新の秘話・大寧寺と豊川稲荷

 豊川いなりの奇蹟

 それはさておき、このような情勢の中で、明治四年の夏、廃藩置県が断行された。旧来の幕藩体制が名実ともに崩れ、中央政府の土台が確立したのである。これに伴い、旧藩時代の罪を不問に付す特赦が公布され、豊川いなりにかくまわれていたわれらが簣雲泰成も晴れて自由の身をかちとることになった 。だが意外にも彼はもはや二度と山口の地を踏もうとはしなかった。以後三十年間にわたって「豊川いなりの妙厳寺」のために余生を捧げ、豊川いなり発展の陰の一大功労者となるのである。

 神仏分離政策が「豊川いなり」に及んだ明治四年の前半、豊川閣妙厳寺はまだ大岡家西大平藩の行政区画に属していた。豊川稲荷(神)と妙厳寺(仏)を切り離そうとする政府の圧力は執拗だった。『西大平藩三河豊川村妙厳寺境内豊川明神区別』とか『豊川ダキ二天由来取調書』といった文書が、政府、西大平藩、妙厳寺のあいだで行ったり来たりしている。妙厳寺は度重なる吟味や取り調べにその つど丁寧に応答しているが、あいだに立つ西大平藩のほうはさすがにウンザりしたものとみえ、「前回と同様」という紋切り型の奥書きで済ませるようになってくる。

 妙厳寺の頑強な抵抗に手を焼いて豊川稲荷分離のキメテを見い出せないでいるうちに、やがて、政府の対応は微妙な変化を示すようになり、ついには提出される伺い書にウンともスンとも一切返事をしなくなったのである。遅延策とでもいうべきか。一体何が起こったのだろう。明くる明治五年六月二十五日、廃藩置県で額田県と変った地方政庁から中央の教部省へ『ダキ二天之儀に付伺い』という一通の書面が提出された。「指示に従いいろいろと取り調べをしたが、妙厳寺の申し立て通り間違いないから処置について指示して下さい、云々」と、まるで政府をせっつくような強い調子の内容だった。これに対する朱書きの返事が、明治五年七月額田県に届いた「妙厳寺の申し立ての通りとすること……」一件落着である。政府はそれまでの強硬な方針がまるでウソのように手の平を返す裁定を下したのである。第二十八代住職禅海霊龍(ぜんかいれいりゅう)和尚に率いられた「豊川いなり」チームは、排仏毀釈の颪がふきすさぶ苛酷な環境の中でその歴史的な大法難を切り抜けた。これは「豊川いなり」の奇蹟として、知る人ぞ知る一大快挙であった。

 この快挙の陰に、山口藩を追われて妙厳寺へ政治亡命していた大寧寺四十五世簣雲泰成(きうんたいじょう)の秘められた功績があったことは、既に前にも触れた通りである。明治新政府の要人には、三条実美卿を推戴する長州藩の出身者が沢山いた。三条実美は、勤皇派の象徴としてゆるぎない権威を新政府の中で持っていたし、三条の方も長州人に対する恩義を忘れてはいなかった。これが「豊 川いなり」の為に尽力する簣雲泰成の活動の背景となったのである。かれは、妙厳寺の若き後継者福山黙堂(ふくやまもくどう、後に永平寺の六十五代貫首となる)を伴って再三政府筋へ働きかけを行った。また、政府の取り調べに対し直接出頭して妙厳寺の為に論陣を張ったとする記録もある。黙堂禅師の後日の回顧談によれば、東京からの帰路、浜名湖の船上で暴漢に襲撃され、簣雲泰成とふたり 水中に逃れて九死に一生を得たこともあったという。いずれにせよ、曲折はあったが結局中央政府が、「豊川いなり」の取り調べは妙厳寺の申し立て通りによろしく取り計らえと出先機関へ朱書き通達をするいきさつになった背後には、簣雲泰成の政治工作が大きくあずかって力があったことは否めない事実である。 簣雲泰成は、妙厳寺の末寺である豊川市内の玉林寺で、明治三十四年に没している。大寧寺を追われて以来三十年にわたり、福山黙堂の指揮する「豊川いなり」の一大躍進時代を陰から支えたのである。黙堂和尚が東京の赤坂へ進出政策をとったときにも簣雲泰成の力がかんでいた。また、明治二十七年、現在の豊川閣大本殿建築計画が発願されるや、意外にも宮内省が応援に動いたという事実にも、簣雲泰成が持つ中央政府との太いパイプが感じられる。

 風雲の人簣雲泰成は、二十世紀が始まると共に、その波瀾万丈の生涯を閉じた。古老の語り伝えによると、晩年の泰成和尚は「豊川いなり」から破格の貴人として遇され、痺身で背が高く、白いアゴヒゲを蓄え、気品のある物静かな人物だったという、大寧寺にはその人となりをうかがわせる遺品はほとんど残されていないが、ただ一本、雄渾な六字一行の墨蹟に在りし日の風貌がしのばれる。
『其政正 國不乱』(そのまつりごとただしければ くにみだれず)。禅家の書には珍しい経世の思想がほとばしっている。


                                      文:徹翁啓靖

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