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大寧寺と湯本温泉

 昔も今も住吉の神

  大寧寺由緒書(毛利家文書)に、以下のような記述がある。大寧寺は、今を去る応永十七年(1410年)の秋、深川の城主であった大内鷲頭弘忠公が開基(スポンサー)となって、薩摩島津家出身の石屋真梁(せきおくしんりょう)禅師を招聘して城内近くに康福山大寧寺として開創された。後に、さらに静謐な霊地を求めて伽藍の移転が計画され、弘忠公は、石屋禅師の弟子の智翁(ちおう)和尚と共に渓に沿って今の境地に到った。旧記によれば、このとき忽然と神童(住吉の神か?)が現れて出迎え、茶二盆を捧げた。すると、二公いまだ喫し終わらない間に、峰々に五色の雲がむらがり渓間流水の声のみとなって、童子の姿は跡形もなく消えうせてしまったという。この奇瑞に因んで、山号が瑞雲山と改められ、大寧寺の七堂伽藍がこの地に移されて整えられた。

 二代智翁(ちおう)はわずか住すること4年にして病没し、その後継者として長門舟木出身の定庵殊禅(じょうあんしゅぜん)が、請われて大寧寺第三世の座に就いた。時に応永三十三年(1426年)のことである。この定庵和尚こそは長門の温泉開鑿に深いかかわりを持つ人物だった。記録によれば、住職就任の翌年湯本温泉を住吉明神より授かり大寧寺所領としたのみならず、同じくこの年、俵山に温泉山正福寺を創建している。一体、この大事業は、どのような背景と歴史的条件によって実現されたのであろうか。地方史の謎として強い関心をそそられる事跡だ。 寺史は、次のような神話によってこの只ならぬ大事業の余韻を伝えているのみである。
 定庵和尚の盛名を慕う當国一宮住吉明神が頻繁に方丈の間を訪れるようになった。住吉大明神時には老翁の姿を借りまた時には婦人の姿に化して入室し、法を問うこと旬日に及んだ。一夜天晴れ月明らかにして周囲に人なく、ただ嶺松の蒼々たりし夕べ、定庵禅師が杖を引いて境内を散策していると、一老翁が石上に弧座して和尚を待ちうけていた。師深く一礼して「汝、尋常の禅を問う者にあらざるべし。」「然り。」「あえて問う、その名を語れ。」と。重ねてその素性、姓名を尋ねた。老翁声に応じて一首の和歌を詠じた。

     松風農声能内奈留隠礼家爾昔毛今母住吉乃神
    (松風の声のうちなる隠れ家にむかしも今も住吉の神)

現在、本堂の西側に神さびた磐石一基があり、世に伝えてこれを住吉の安禅石と呼び慣わしている。  定庵禅師は直ちに住吉明神を丈室に請入し、 仏道修行の奥義を印可する菩薩大戒と錦の袈裟をさずけられた。住吉明神これを頂戴してのたまわく。「法恩甚だ重し。他日、南に下ること八丁の地に温泉を沸かして衆僧の灌浴に便せん」 といいおわり、十丈余の竜蛇に化し額に袈裟、血脈をいただいて雲を攫んで天空に去った。すると忽ち周囲の林山鳴動し、雷電四方に発したという。
 後に定庵和尚が一ノ宮に参詣すると、内殿の机上にかの袈裟が奉安されていたとも伝えられている。ともあれ、住吉明神神授の霊湯たる湯本温泉は、大寧寺と共におよそ六百年の歴史を歩んできた。大寧寺の奥の院である御開山堂には、千早直垂の上に袈裟を掛け、冠を戴いた住吉明神の木彫が、當山傳法第四位當国一宮住吉大明神と記された尊牌を前にしてひそかに祀られている。仏道の真髄に感応道交した住吉の神は、大寧寺にとって、単に境内守護の鎮守の位を超える重要な神格として崇められ、今日に及んであるのである。

                                      文:徹翁啓靖

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