長門豊川稲荷を迎えたのは昭和三十六年、祖山徹学和尚の時代である。
その動機は、山口の阿部家に伝わり、のち白藤董氏(山口市、故人)秘蔵の叱枳尼真天のご神体が当寺に贈られたことによる。
叱枳尼真天は稲荷のご神体。白いキツネに乗って空を走り仏道を守る。さらに、当寺とこの稲荷の宗社、妙厳寺豊川稲荷(豊川市)の深い関係がある。幕末の文久三年(1863)、朝廷との対立から、七人の公卿が都を追われ、長州に逃れてきた(七卿落ち)。
その中に一人、三条実美を手厚く保護したのが、当寺四十五世・簣運泰成和尚であった。
維新後、長州藩では、兵制改革のことから反乱事件が起こった(脱退兵事件)。反乱鎮圧の後、首謀者らの大量処刑があった際、 助命運動に尽力した簣運和尚は藩の反発にあい、豊川の妙厳寺に身を寄せる。
そのころ起こったのが、国の神仏分離令による妙厳寺豊川稲荷つぶしであった。そこで簣運和尚は、妙厳寺に住職らとともに政府に救済を求めた。新政府の要人に、三条卿や多くの長州人にいたことが幸運であった。豊川稲荷はその危機を救われたのである。
このような奇縁から、長門豊川稲荷を当寺に迎えることができた。
豊川稲荷は日本三大稲荷の一つ。家内安全、諸願成就と、多くの人びとの信仰をあつめている。
祈祷とは「神仏に祈る」ことであり、祈願者が直接神仏へ祈りを捧げるものです。お正月に神社仏閣に参拝し、お賽銭を奉じて手を合わせその年の安全を願う、この行為そのものが祈祷と言えるものです。
仏教における御祈祷の起源は真言密教に伺えます。手印を結び、護摩を焚き、陀羅尼を唱えながら祈願者の願望が叶うように僧侶達と共に祈るものです。
当禅宮では護摩焚きはいたしませんが、祈祷太鼓による読経と、大般若経転読によって日々お勤めさせていただいております。
御祈祷 | 家内安全 家業繁栄 身心堅固 交通安全 学業増進 良縁具足 出産安全 災難消除 営業繁栄 社中安全 商売繁盛 病気全快 厄難消除 芸道増進 心願成就 開運満足 大漁満足 海上安全 工事安全 皆様の祈願成就の御祈祷を行っております。 ―厄払い― 人の一生のうち、注意しなければならないと言われている特定の年齢を、厄災の多い年として厄年と呼んでおり、数え年で、男性は25歳、42歳、女性は19歳、33歳とされています。 厄年は、生理的にも、社会的にも、人生の転機にあたる年齢であるとも言えます。当禅宮では、厄年の方には、『厄難消除』の御祈祷をお勤めいたします。 |
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豊川稲荷は、愛知県豊川市にある豊川閣妙厳寺(曹洞宗)に鎮座する。創建は嘉吉元年(1441年)である。
日本三大稲荷の1つとして、古くから多くの人々の信仰をあつめてきた。
今川義元、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、渡辺崋山らも熱心な崇拝者であった。
とくに、江戸の名奉行として知られる大岡越前は、生涯この稲荷を守護神にしたという。
豊川稲荷の祭神は、仏法を守る叱枳尼真天である。
第84代・順徳天皇の第3皇子、寒厳義尹禅師が宋の国(中国)での修業を終え、文永4年(1297年)帰国の途中、海上に美しい霊神が現れた。稲束を肩にして宝珠を捧げ、
白い狐にまたがったその叱枳尼真天は、声高らかに唱えた。
「唵尸羅婆陀尼黎吽娑
婆詞」
「わが正しく明るい戒めは広大である。これを信仰すれば、悪事や災難は除かれ、苦しみは楽しみに、悲しみは喜びに変わる。これは必ず成就される」という意味。豊川稲荷ご祈祷の呪文(神呪)である。
寒厳禅師は深く感動し、帰国後その尊像を自ら刻んで祭った。
禅師の没後、その流れをくむ東海義易禅師が妙厳寺を開いた際、山門にその尊像を祭り守護神とした。
母なる菩薩として、子宝、安産、幼子の無病息災、すこやか、成長の大願をかなえ給う。
人形や玩具をねんごろにっ供養し、仏様のもとえ、お返しし感謝の心と共にお別れすることで、子供たちはもとより、大人の感性も豊かになればとの願いで建立された。
開 催 日 | ご供養は毎日行っています。 |
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受 付 | ご供養されたいものは毎日受付けて、ご供養しております。 |
受付時間 | 午前:9:30~午後4:00 |
御供養に関するご相談 | さまざまな御供養に関する事も、相談受付をおこなっています。 長門豊川稲荷禅宮 受付時間午前:9:30~午後4:00 メール等では受け付けておりませんので、ご了承ください。 |