当寺に眠る関東管領上杉憲実の墓、本堂に向かって左側の墓苑に、関東の武将、上杉憲実の墓がある。 室町時代の前期、鎌倉府の将軍格ともいえる関東公方・足利持氏は、ひそかに幕府将軍(京都)の座をねらっていた。 不穏な情勢の中で紛争をさけようと、持氏をいさめ、幕府との調整をはかっていたのが、公方の補佐役、関東管領・上杉憲実であった。 しかし、憲実の動きは持氏との対立を生む。永享十年(1438)、持氏はついに憲実討伐の軍を発する。これを知った将軍・足利義教は、直ちに持氏を攻め、持氏の自害で戦乱が治まる(永享の乱)。 のち、憲実はしばらく鎌倉府の政務にあたる。 憲実はこのころ、足利学校(下野の国)=栃木県=当時、国内唯一の教育者養成校)を再興する。 その後、出家した憲実は、西国行脚に旅立つ。 諸国をめぐり歩いたすえ、最後に、”一大事の禅”を求めて、深川湯本、当寺の名僧、竹居禅師のもとにたどりつくのである。 禅師は憲実のため、境内に槎留軒を建てた。参禅の中で文正元年(1466)憲実は五十五歳の生涯を終える。 この翌年、京都では「応仁の乱」が起こる。境内、槎留軒の跡地は不明であるが、天保十四年(1843)、長門市三隅庄豊原へ建物が移されている。 |