大寧護国禅寺

6.厚狭洞玄寺の廃寺事件明治維新の秘話・大寧寺と豊川稲荷

大寧寺蔵
兜かけの岩
長門豊川稲荷

 明治政府の宗教政策に臆することなく立ち向かおうとした妙厳寺霊龍れいりゅう老師の背後に、二人の傑出した、 ブレーンが居た。ひとりはこの物語の主人公である簣雲泰成きうんたいじょう。もうひとりは、後に永平寺の貫首に昇る若き日の福山黙堂ふくやまもくどう禅師であ一た。 二人のタッグ・チームこそがその難局にのぞんで「豊川いなりの奇蹟」を生む原動力になるのである。

 明治二年六月の藩籍奉還から同四年七月の廃藩置県までの時期は、たった二年ほどの短かい期間だが、日本社会を根底から揺さぶる行政改革の嵐が人心に与えた影響は計り知れないものがあった。 その時期、山口藩脱隊騒動に連座した大寧寺の四十五世簣雲泰成が、秘かに長州を落ちのびて遠く三河国豊川いなりにかくまわれたいきさつは前述した。 じつは 大寧寺一門の中には、 泰成和尚よりもっと過激な形でこの騒動に関与し、維新政府のお尋ね者となった僧侶が他にもいたのである。時代の雰囲気を知る参考に、この事例の顚末を簡単に述べてみよう。

 代々厚狭毛利家の菩提寺だった山陽小野田市厚狭の洞玄寺住職実音じつおん和尚がその当事者である。実音は決起した厚狭毛利家家臣の若い志士たちに共鳴し、明治二年の暮れ、 暴動が起きるとすぐ反乱軍の指導者として加担したことがわかっている。当時洞玄寺の寺総代だった二歩俊祐翁の日記によると、その後のいきさつはこうである。「明治二年十二月十五日、洞玄寺呼出しそうろう事。 よく一六日、住職実音不審の趣あるをもって蟄居の沙汰下令」。この夜、実音はとる物もとりあえず地下にもぐったようである。十七日朝早く山口から飛脚が到来した時には既に住職行方不明。あわてた藩庁は 三名の捕縛使を急派し、厚狭毛利家にも応援を申し入れて逮捕に全力を挙げた。翌日の十八日からは目明しを総動員して探索に当り山狩りも行ったが、実音和尚はなんとか追跡を振り切って逃げおおせたようである。 ついに十二月二十五日に至り、実音和尚の出奔が確認され政府の寺社局へ正式な届けが出されている。また同日付で洞玄寺の本寺である大寧寺へもその旨公報された。この結果はどうなったのか。 実音の消息はその後杳として知れないままである。そして明治三年五月八日、山口藩庁は次ぎのような裁定を下した。

 『厚狭 曹洞宗 洞玄寺実音
 右は先般脱隊卒どもの暴挙のみぎり、容易ならざる異議を企み露顕およびそうろうに付脱走し、今もって行方分らず大胆千万の事に付、
 これによって廃寺仰せつけられそうろう事』
 要するに、住職が時の政府にそむいたので寺をつぶすというのである。いくら重大な事故があったとはいえ、歴史を誇る名刹で、大寧寺教団きっての有力寺院でもあった厚狭毛利の菩提寺をあっさり一片の書類で廃寺にするとはただごとではない。 神仏分離、排仏毀釈の嵐が吹き荒れていた当時の「時代の気分」というものが窺える事件である。大寧寺一門は、恐れおののくとともに激怒した筈である。 密議を重ねた末、政府の強圧に首をすくめながらも、寺の看板をとり換えたり寺格を引き下げる工作をしたりして、なんとしても洞玄寺の法脈を断つまいとグループあげての努力が展開されている。 簣雲泰成が大寧寺を追われたのは、この洞玄寺問題の処理に一応の見通しがついた時期と重なっているのも、なんとなく意味ありげだ。

明治維新の秘話・大寧寺と豊川稲荷

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