日本の歴史を一貫した通史としてまとめあげた幕末の歴史家頼山陽は、同時にまた、 人も知る漢詩文の大家である。 鞭声粛々夜河を過る、 で始まる「川中島」の名吟を知らない者はいない。この山陽の代表作品の一つに、 日本建国の古代史から秀吉の朝鮮出兵で幕引きとなる戦国期までの66の大事件を選んでこれを格調高く簡潔に詠った『日本楽府)』と名づける歴史詩集がある。 このなかに大寧寺を舞台とする史実が二つも収録されていることを皆さまはご存知だろうか。一つは、後日詳しく紹介する大内家滅亡の悲劇でこれはおよその見当がつく。しかしもう一つは、なんだろうか。 『日本楽府』第46曲に「両塊の肉」と題して詠われた室町時代の英雄、 関東管領上杉憲実公が、流浪の果てに1467年(応仁1年)年3月6日、大寧寺で波乱に満ちた57歳の生涯を閉じた。 政界を退いて出家入道した憲実が、大寧寺第四世竹居正猷の弟子となってこの寺に庵を結びそこで晩年の約14年間を暮らしたのである。 僧名は、高巌長棟。 曹洞宗大系譜にも竹居正猷の法を正式に嗣いだ七人の弟子のひとりとして明記されている。求道の師である竹居は既に数年前先だっていたので、憲実の荼毘(葬式)は大寧寺五世を継いだ 兄弟子の器之為禅師によって執行され、葬送の偈文が残されている。 「かって覇府棟梁の権(鎌倉府の顕官関東管領)を施し、道を訪ね師を尋ぬること19年。 今日始めて行脚の債を還し、火蛇呑却す尽三千(全宇宙)~」と。 上杉憲実公は、応永17年(1410年)、越後の守護上杉房方の三男として生まれた。誕生は、奇しくも大寧寺開創の年と同じである。長じて鎌倉の山内上杉家の養子となり10歳にして関東管領に就任した。 関東管領は、室町足利幕府の出先機関である鎌倉府において関東公方を補佐する要職。 京都にあって将軍を補佐する幕府管領と連携をとりつつ不安定な戦乱の時代に為政するいわば今日の官房長官というべき中世の高級官僚であった。 さまざまな事情が重なり、憲実が輔弼する関東公方足利持氏が六代将軍義教と対立するに至るや、憲実は粉骨砕身して幕府と鎌倉府の確執の調停に奔走した。 だが野心に燃える持氏と個性強烈な将軍義教の対立の溝は埋まらず、幕府の厳命により遂に憲実は主人である関東公方父子を鎌倉永安寺に追い詰め自害させるいきさつとなった。 風雲の将上杉憲実は、儒学研究のセンターである金沢文庫を保護し、有名な足利学校を復興して、 当代一流の知識人としても名望厚かった。この時代、儒学の素養は武士階層必須の教養だったし、武士団と共に台頭する曹洞宗教団の基礎学でもあった。 西国大寧寺の竹居正猷和尚はつとにその盛名を国中に知られた儒学者でもあったから、憲実と竹居正猷は、学問を通じてかなり早い時期からお互いの存在を認め合っていたと推測される。傍証ではあるが、竹居の直系の弟子たち複数が、早い時期足利学校に留学して老荘の学を学んでいた事実に注目しなければならない。 ともあれ、複雑なしがらみに翻弄された自らの半生に哲学的な総括を行って伊豆の国清寺に隠遁した上杉憲実は、本格的な出家僧として諸国遍歴の旅に出た。 1447年前後の消息である。その後、憲実の足取りは正確にはわからない。北の越後に暫く滞留したが、やがて京都や九州に赴いた気配がある。この間、文安5年(1448年)秋、憲実の息子上杉憲忠 が後継として関東管領に就任した。 伊豆を去ってから数年の後、出家入道した憲実は長門の国大寧寺で竹居正猷に見えた。 寺録によれば享徳1年(1452年「)の事跡である。『鎌倉大草紙』は、鷲ノ頭氏を亡ぼして新たに大寧寺の大檀那となった大内教弘 が関東管領としての実績と上杉家の家格を利用しようとして積極的に憲実を招聘したという記事を載せている。 果たして真相はどうだろうか。いずれにしても、政事を捨て学問に生きる決意をもって出家した憲実は、自らの正師を求めて遍歴を続けていた。儒学の蘊奥を究めた禅僧として 大寧寺中興開山の竹居正猷に指導と助言を求め、 大内氏や大寧寺のコネクションによって最終的には儒学の本場中国の明への留学を果たそうと考えていた可能性もある。 大寧寺に逗留することになった憲実は、自ら境内に「槎留軒」と名づける茅屋を建て、結果的には14年後に没することになる余生をこの塔頭に棲むことになったが、この庵の名前は、筏を暫く留めるという意味である。 実は、未来に夢を託して大寧寺に気鋭の草鞋を脱いだ2年後の亨徳3年(1454年)暮に、鎌倉で思いもかけぬ大事件が勃発した。時の関東公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を暗殺したのである。 憲忠は、引退した憲実が後事のすべてを託した長子だった。この悲報は憲実の胸にどのように響いたであろうか。ひたすらに義学の真髄を追求しようとする心構えと気力がこの事件を契機に一気に崩れ、 僧高巌長棟本然の姿として、敬愛する竹居禅師の膝下で仏法本来の「一大事(生死の理)」の因縁を参究しようと決意していく憲実の心の軌跡があるかもしれない。 以上はもとより飛躍した私見ではあるが、大寧寺歴史墓地に苔むす墓から放射される重たい直感ではある。 |