大寧護国禅寺

9.義隆長門に奔る 第一話 山口落城六百年の歴史をひも解く

大内義隆像
本堂を囲む紅葉群
大内一族

 天文てんもん20年(1551年)旧暦8月、家老すえ尾張守隆房たかふさ謀反、山口を襲う。 28日、義隆法泉寺ほうせんに入りて防禦を固める。判官冷泉隆豊れいぜいたかとよ諸将を率いて嶽山を守る。 29日、本営の兵多数脱走せしをもって諸将法泉寺に召還せらる。その夜、義隆長門にはしる。賊追撃す。隆豊殿戦でんせん してこれをしりぞく。九月朔日ついたち、義隆大寧寺に自殺す。44才。住持異雪いせつ和尚、 菩薩戒を授けて為に瑞雲珠天ずいうんしゅてんいみなす。隆豊介錯して客殿に火を放ち、 岡部隆景たかかげ、天野隆良たかよし、黒川隆像たかかた禰宜右延ねぎみぎのぶ、大田隆通たかみち、右田隆次たかつぐ 等と棟木の焼け落ちるまでその場を守護して義隆のなきがらを焼き隠し、さりて後経堂にとり上りて寄せる賊兵を射ちらし切り伏せ、ついには腹十文字に掻き切って臓を摑みて天井に打ちつけ焔の中に飛び入りて死す。 隆豊享年39才。奉供の家臣ことごとく殉難し、嫡子義尊よしたか(新介、7才)、二条良豊よしとよ、三条公頼きんより等害せらる。 ここをもって猛焔忽ち一山におよび、七珍万宝をなげうちて造営せし仏殿、山門、くり、方丈、僧堂、法堂に至るまで一宇も残らず赤土せきどとなる。
大内家滅亡の悲劇を今に伝える古書、伝記の類は多いが、大寧寺と関わる史話の骨子はおおむね上の如きである。以下3回にわたり、順を追ってやや詳述する。

第一話 山口落城
 1551年の春、山口城中でサビエルと会見しその請に応えてキリスト教の伝道を容認した義隆だったが、同族でもあり又大内家侍所さむらいどころの主将である陶隆房 (義隆を亡ぼした直後入道して晴賢はるかたと改名する。)のクーデターによって、この年の秋には、一夜にして栄華の絶頂から奈落の底へと引きずり落とされる羽目となった。 よろず京風に心酔し、文芸、舞楽、宗論に没頭して飽きない文人趣味の宗主を戴いたままでは、ひたひたと押し寄せる戦国騒乱の血腥い風雲にいずれ飲み込まれてしまうは必定。近未来に迫る亡国の予感が、武人たる者上下を問わず現実の脅威となっていたに違いない。 度重なる忠告や警告にも耳を貸さない義隆に絶望した心ある将校たちは、家風の刷新を謀って大内家当主の廃位、交代を画策することになった。計画は多年にわたって進められ、準備は周到を極めていた。 人望高い武人の棟梁陶隆房を担いで、大内家侍所さむらいどころの有力武将のほとんどが反乱を支持する事態にまで立ち至っていた。 危機の兆候はいたるところで顕わになりつつあったが、やんぬるかな、義隆自身と政所まんどころの側用人たちは、この兆候を傲慢にも無視した。権力に安住する人間の通弊としか言いようがない。要するに、多寡をくくっていた。

 天文20年8月28日、満を持して作戦が発令されるや軍事行動は電撃的に展開した。反乱軍の主将陶尾張守が徳地口より山口城を衝き、ひき続き、落ち延びる義隆一行を長門に追い詰める先鋒となった江良丹後守らの手兵が防府口から突撃した。 大内館に常在していたのは文官や官僚がほとんどで、対抗できる実戦部隊が脆弱な状況下での首都制圧。クーデターは瞬時に完璧な形で成功した。急遽、北方の山岳地帯に拠って法泉ほうせん寺―凌雲りょううん寺の線で 反攻の野戦陣地を敷こうとした義隆本営だったが、一気に攻略されて持ちこたえることができず、自決か亡命か、切羽つまった二途択一の軍議が29日の夜にかけておこなわれ、逃避行を決意した義隆一行は夜半密かに北方の仙崎湾小島港を目指して陣営を落ちていった。 山口城内では占領軍による敵性勢力の徹底した粛清が進められ、事変の本質的な性格から、武人だけでなく、女性を除いて非戦闘員である公卿や文人や宗教家も呵責に誅求された。 サビエルが義隆の認可を得て設立した山口教会大道寺だいどうじに拠るパーデレたちが陥ったパニックの様子について臨場感の濃い資料が残されている。京都から留学していた高位の公卿たちや 当時国宝級の芸能家たちだからといって免罪される見込みは無かったのである。義隆としては、なんとしてもこの貴重な文化人たちの命だけは救う義務があると考えていたはずである。クーデター軍は政治改革だけではなく、 むしろ文化革命を志向していた気配が濃厚である。家風を惰弱に導く者たちの殲滅を期して追捕の姿勢を鮮明にし、容赦はしなかった。はや戦闘というよりも落人狩りの様相を呈していた。

 義隆と行動を共にした人々の実数ははっきりとはわからない。しかし、隠密裏の逃避行である以上少数でかつ迅速な運動が必要であった。また、有効な陽動作戦も不可欠だったはずである。 この隠密行動を立案し指揮した側近は、現在の美祢市秋芳町一帯を領有していた地理に明るい岡部右衛門尉隆景ではなかったか。彼は先ず、一行が分国内の主要道である肥中ひじゅう街道を西に向かうと見せかけた。 亡命の為に肥中浦の船便を当てにするのはしごく合理的な行動と見える。吉敷峠を越え綾木村、岩永本郷と肥中街道を急行した一団は、捕捉されても殺害される心配のない女性グループ(殿敷とのしき村から、 現在の豊田町西市の楢原ならわら村を経てその先の稲波いなみ村まで進んだところで追捕され、全員自殺した。)を街道沿いにそのまま先行させて陽動しつつ、 公卿衆や伶人(音楽家)たち非戦闘員を分散させた上で、義隆騎下の本体は岩永村から急遽脇道を北行して嘉万かま村を抜け、山間の険路伝いに最短距離をとって三隅村の小島港へ飛び込んだ。 この港は大内氏が北浦地方で公営する海運、回船の有力な基地のひとつだったし、時の長門代官が義隆の母親が出自した内藤氏だったことも行動計画の重要なかなめではなかったか。 岡部の描いた目論みはズバリ当たって厳しい追討軍の監視の網の目を見事にくぐり抜けたのである。眼前には、一行の亡命を成功に導くはずの大津の海が広がっていた。

六百年の歴史をひも解く

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