1600年関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は国家行政の拠点を関東に移すことを決意し、1603(慶長8年)年江戸に征夷大将軍の幕府を開いた。 しかし、将軍職の名分は息子の秀忠にゆだね自らは駿府城に腰を据え大阪方面の動静を監視しながら新しい国の形を模索する大働きをしていた。 当面の目標は豊臣氏とそのシンパである西国大名の制圧・一掃であり、来るべき大阪冬の陣(1614年)、夏の陣(1615年)への準備であったが、同時に、駿府における家康は「その先」を見据えて重要な制度設計に着手していたのである。そのキーワードは「一極集権」。 中世から戦国時代にかけて主役を演じてきた地方武士団、朝廷貴族、寺院勢力の三大権力を無力化し、新しく朱子学(儒教)のイデオロギーを柱に立ち上げる 幕府官僚制度の下に組み込んでいこうとする大構想であった。先ず西国大名の人質を江戸へ集めたうえで有無を言わさず「武家諸法度」が公布された。 この制度に基づいて譜代大名の妻子の江戸定住が義務付けられ、やがて寛永12(1635)年に始まる参勤交代制度へと発展していく。 続いて天皇を中心とする朝廷権力をコントロールするため池田輝政(てるまさ)らが策定した「公家諸法度」が施行され、引き続き「寺院諸法度」が仏教教団各派に対して家康の朱印状により逐次公布されていったのである。 徳川家康の宗教政策には幕府官僚体制を裏支えするための深慮と遠謀があった。当時駿府にあって政策顧問をして家康に重用された僧侶は二人。逸話の多い天台宗の老怪僧南光坊天海。 上野寛永寺を創建し、陰陽道や風水思想に基づいた江戸鎮護の都市計画を指揮すると共に、江戸幕府初期の朝廷政策や宗教政策に関与したことで知られる人物である。天海は、仏教諸寺院のうち主に密教系の寺の仕置を担当した。 もう一人は天海と親子ほども歳のはなれた臨済宗の若き天才金地院崇伝(こんちいんすうでん)。南禅寺に所属し、中国や朝鮮との国交回復を模索する家康の懐刀となって活躍した外務官僚だった。鋭利な頭脳と冷徹な判断力が冴え渡り、 時に「黒衣の宰相」とまで異称される崇伝は、ライバルの天海と住み分けて、主として禅宗系の諸寺院の統制策を立案した。幕府は新しい僧録司を設置して崇伝を任命したが、 かれは臨済宗の五山派のみを直接統制し、曹洞宗については宗内規定の原案を提出させてこれを追認し、曹洞宗独自の統治機構によって自治的に履行させようとした。 こうして1612(慶長17)年いち早く「天下曹洞宗法度」が家康の朱印状によって公達され、次いで1613年には「勅許紫衣之法度」、 つづいて2年後の1615年には「五山十刹諸山法度」(臨済宗)、「妙心寺法度」(臨済宗)、 「永平寺法度」(曹洞宗)、「大徳寺法度」(臨済宗)、および「總持寺法度」 (曹洞宗)が一斉に発布された。 この家康朱印状がそれぞれ永平寺、總持寺別々に布達されたことにより、本来統一されてしかるべき曹洞宗門の本山が公式に両立する本山、両本山制に固定され、確固たる特殊制度として今日におよんでいるのである。 江戸幕府初期の宗教政策は、宗門権力のの肥大化を阻止して幕府の支配権を貫徹させようとする意図が濃厚である。 勢力を分散させるためには本山は二つ認知しても、行政の効率や効果を挙げるためには一元化された上位下達の仕組みが不可欠だ。やがて幕府は閣内に寺社奉行を設置し、その下に関東地方の有力寺院を触頭(新制大僧録)として配置しここをテコにして 全国津々浦々の寺院を統制する完璧な宗教官僚制度を敷くことに成功したのである。 その際、地方末端の組織は、旧来の有力な僧録寺院を中間の触頭として活用し、新たに寺院間のタテ系列を強化固定する強引な本寺-末寺制度を調製して、幕府の意思が素早く末端の細胞寺院にまで伝わる仕組みを実現していった。 このシステムは、農村共同体を経済政策の基礎に据えようとする徳川幕府の意思と連動し、村々を単位に生産者と寺院が一体となってまとまりをつくる檀家制度を発展させることになった。 檀家制度は、地域の治安、思想、教育、戸籍管理等の行政補完機能を担うようになった寺院や僧侶への報酬として保護され、1700年代以降、日本の仏教寺院の数は飛躍的に増加し、菩提寺制度によってその経済力も安定していったのである。 さて、以上のような新しい江戸幕府体制の中へ組み入れられていく大寧寺は、その権勢の立地基盤を根本的に変更しなければならなくなった。 資料によれば、大本山 總持寺から「日域曹洞宗諸法度」および「扶桑曹洞宗掟の事」が大寧寺に布達されたのは元和9(1624)年8月13日のことである。 寺院法度の内容と、幕府(国政)と毛利藩(地方政府)に二重支配を受けることになるこの時期の混乱や変化のありさまについては次稿で具体的に述べてみたい。 |