大寧護国禅寺

1.地方分権のエネルギーとアジアの海六百年の歴史をひも解く

文殊菩薩
古地図
紅葉の大寧寺

 13世紀末から14世紀の日本に外交内政に関わる二つの重要な事件があった。一つは、元寇。特に弘安の役(1281)の戦後処理から東シナ海方面への航路開発が進み、国際化への基盤整備が始まった。 もう一つは、南北朝の対立から武家の室町幕府が成立。大規模な地方分権のエネルギーが台頭してついに応仁の乱(1467)にいたる。この時期、「国際進出」と「地方分権」が西南日本においてドッキングした。この地方に勢力を拡大していく大内一族 (鷲ノ頭氏、陶氏を含む。)は、対抗する有力豪族と争闘をくりひろげつつ二つの目標を達成しようとしていた。一つは「アジアの海」へのルート整備と商業権益の確保。そしてもう一つは、貿易の元手となる国産鉱物資源の独占である。

 当時の地方武士団の躍進の背景には、かれらのコンサルタントとして機能した新興仏教勢力があった。中央権力と結びついて利権を確保している既存仏教と対立し、盛んに地方の分権を促した。 それが教線をのばして生き残る道だったからである。南九州の島津家と本州西端の大内家は、後発の新興教団であった曹洞宗(禅宗)の西日本における突出した二大スポンサーとなった。 中国で学んだ留学僧たちの先端知識、ノウハウ、テクノロジー、コネクションは、海洋貿易立国を目指す薩摩、長州の地域戦略にとって欠くべからざる知的資源だったし、また、禅僧は多くの場合有能な外交官でもあった。

 南九州の人材がこの分野で一歩を先んじていたように見える。防長各地に展開する大内一族は、15世紀の前半に四つの重要な曹洞宗寺院を建立したが、これらの寺院群を造営したチームのリーダーには鹿児島から招聘された人たちが多かった。石屋真梁せきおくしんりょう (大寧開祖)禅師の薫陶を受けた天才たちで、中でも、伊集院出身の竹居正猷ちっきょしょうゆう(同第四世)が重要な役割を演じたことがわかっている。山口市小鯖の泰雲寺、深川の大寧寺、周南市長穂の龍文寺、それに山口市の瑠璃光寺。 中国地方から北九州一円に大量の末寺を展開することになるこの四山は、いずれも薩摩人の設計図によって其の礎が置かれた。

 大内一族がスポンサーになり島津の人脈が設計した防長曹洞宗四山のシフトの歴史的意味はなんだろうか。実は、この四ヶ寺に連なる古い末寺群は、中国地方山間部の金属資源の生産地や流通中継地点に配置され、 また、国内各地やアジアの海に物産を搬送する要港の近くに建立されていた。この時期、この地方では、宗教と経済を一体とする戦略が進行していった可能性が強い。たとえば深川の大寧寺は、足利幕府が明との間に勘合貿易の制度を整える時期から、 大内の社稷を相続した毛利氏が関ヶ原に敗れて海上権を失うことになる17世紀初頭までの250年間にわたり、周防灘、玄界灘、対馬海峡、黄海に連なる交易路線に沿って沢山の末寺、孫末寺を津々浦々に配置してきた。 中国山地の鉱物資源と東アジアの海を繋ぐ意志が端的に感じられる構図である。

六百年の歴史をひも解く

関連記事