大寧護国禅寺

2.大寧寺の基礎を築いた薩摩人六百年の歴史をひも解く

石屋真梁禅師
大寧寺木魚
竹居正猷禅師

 仏教寺院では、一般にその寺の初代住職を「開山かいさん」と呼び「御開山さま」と特別な思いをこめて敬う。 これに対して、寺院の礎を置いた大壇越だんのつ(在俗のスポンサー)は「開基かいき」と呼ばれる。 また、歴代住職の中で天下に隠れも無い偉大な功績を残した大和尚はその寺の「中興ちゅうこう」と尊称されるのが慣わしである。
 旧記によれば、この時期、曹洞宗の教線を主として西南日本に拡張する拠点となっていた丹波(兵庫県)永沢ようたく寺の嘱を受けた 輪番住職の任を終えて薩摩福昌寺への帰途、威勢を高めつつあった弘忠の深川城に立ち寄り、1410年から1412年までの2年間この地に滞留したとされる。 おそらくは海路による旅の途中だった。一説では、諸国で地方武士の蜂起が相次いだこの時期、東九州の大友軍が赤間ヶ関付近(現在の関門海峡)に布陣して 通行を阻害していたため一時深川城で事態の推移を見守ることになったともいわれている。 地方領主鷲ノ頭弘忠と天下に名を馳せていた名僧石屋真梁せきおくしんりょう が図らずもこの地であいまみえることになった。石屋禅師は18歳で中国に留学し、入宋20年間の履歴を持つ当時一流の碩学であった。

 石屋真梁が深川城に滞在することになった勝縁を喜び、弘忠公は城内に康福寺と名づけた一宇を建立してその開山に招聘した。 この寺は間もなく整備が進んで康福山大寧寺護国禅寺と改称され、さらに大規模な伽藍が必要になったため現在地に移転されて山号も瑞雲山大寧護国禅寺と改められたとされる。
 石屋真梁は、間もなく薩摩の自坊に帰院したが、入れ替わりに優秀な弟子を派遣して大寧寺の順調な発展を支えることとなる。その中心人物として防長の地において石屋派の一大発展のために多彩な采配をふるったのが、 高弟竹居正猷ちっきょしょうゆう禅師だった。竹居は、1345年に生まれた師の石屋真梁より26歳年下の若い愛弟子で、共に南薩摩の伊集院に生を受けた同郷の学人であった。 彼は、晩年の師を補佐して大寧寺の経営に意を注ぐとともに、周防の禅刹の経営にも深く関わった功績が史実において明らかである。竹居正猷は、師石屋真梁禅師が、1423年、79歳を一期として永沢寺で示寂するや、 兄弟子の智翁永宗ちおうえいしゅう及び定庵殊禅じょうあんしゅぜんに続いて大寧寺第四世の法灯を嗣いだ。 時あたかも鷲ノ頭弘忠卿が長門守護代に信任された年(1432年)に当たっており、史上いわゆる鷲ノ頭時代の全盛期が招来しようとしている時期だった。

 然るところ、大内本家の27代持世公が京都で客死した1441年頃から深川城主鷲ノ頭弘忠は大内一族と厳しく対立するいきさつとなり、ついに1447(文永4)年には、長門守護代を罷免され、翌、文永5年、 大内28代当主教弘公の深川城急襲を受けて一族重臣ともども全滅する悲劇となった。あたかも、これより100年後、この地で再び繰り広げられた大内義隆父子の最後を髣髴とさせる凶変だった。大寧寺開基の鷲ノ頭弘忠卿は、 哀れ1448年2月17日深川城外において憤死した。法号は護国寺殿宗翁弘忠大禅定門。霊廟並びに真牌はいまも大寧寺に安置されている。

 大壇越戦死の報に接するや、弘忠公への崇敬厚かった竹居正猷禅師は、直ちに鼓を打って寺を退去し、遠く郷里の薩摩直林寺へ隠居した。 戦闘の勝利者となった大内教弘卿をはじめ山口の大内本家の歴代当主もかねて小鯖宇津木畑に造営した闢雲びゃくうん禅寺(現、鳴滝の泰雲寺)によって 竹居正猷禅師へ深く帰依してきたいきさつがあり、教弘卿自らが再三にわたって懇請し、爾後大内本家の香華院として再建した大寧寺への帰院を促した。 その意を断ち切れず、竹居正猷は弟子を伴って大内家鎮魂の寺として新装なった大寧寺へ再住することになった。

 このようにして竹居正猷禅師は、大寧寺に住山すること延べ30年。防長の地に鮮やかな事跡を残して、寛正2(1461)年10月25日、予め自らの死を予言して示寂した。この急報に接した山口の太守大内教弘公は、 生涯の師と奉ずる竹居和尚の臨終に付き添い、野辺送りの棺の傍らに侍したと伝えられている。

六百年の歴史をひも解く

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